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妻木 頼矩(つまき よりのり、文政8年(1825年)11月 - 明治24年(1891年)1月12日))は江戸時代末期の旗本(500石)。通称は伝蔵、後に多宮。号は棲碧(せいへき)。向休。子に頼辰。 == 経歴== 甲府学問所学頭、目付、大目付等を歴任し、慶応4年(1868年)1月9日、徳川慶喜が大坂城を退去したのちの引渡し役を務めた。尾張藩・越前藩の立会いの上徳山藩・岩国藩兵に引渡したが、本丸御殿台所より火の手が上がり城は全焼してしまった。明治2年静岡藩権大参事となった。廃藩置県後は横浜毎日新聞初代主筆を務めた後に文部省、宮内省と歴任した後、帝室博物館で日本美術の調査にあたった。明治24年、67歳で没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「妻木頼矩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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