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婁叡[ろう えい] 婁叡(ろう えい、? - 570年)は、北魏からの北斉にかけての軍人・政治家。字は仏仁。本貫は太安郡狄那県。婁昭君(武明婁皇后)の兄の子にあたる。 == 経歴 == 北魏の南部尚書の婁壮(婁抜)の子として生まれた。若くして弓射や乗馬を好み、高歓の下で帳内都督をつとめた。高歓が韓陵で爾朱氏を破る(韓陵の戦い)と、婁叡は開府儀同・驃騎大将軍となった。掖県子に封じられ、光州刺史に累進した。任地にあって収奪をほしいままにして高澄の叱責を受けた。後に九門県公に封じられた。北斉が建国されると、領軍将軍の位を受け、安定侯の別封を受けた。瀛州刺史となったが、醜行は改まらなかった。556年(天保7年)、魯陽蛮を討って撃破した。560年(皇建元年)、東安王に封じられ、豊州刺史に任じられた。561年(大寧元年)、司空となった。562年(河清元年)、高帰彦が冀州で反乱を起こすと、婁叡は反乱の鎮圧にあたった。帰還すると、司徒公に任じられた。564年(河清3年)、殺人の罪で尚書左丞の宋仲羨の弾劾を受けたが、赦免された。太尉となった。北周軍を軹関で撃破し、北周の将軍の楊檦らを捕らえた。大司馬となり、軍を率いて懸瓠におもむき、豫州の境に100日あまりとどまった。法を犯して免官された。565年(天統元年)、太尉として再起した。566年(天統2年)、再び大司馬となった。567年(天統3年)、太傅となった。570年(武平元年)2月5日、死去した。右丞相・朔州刺史の位を追贈された。諡は武恭王といった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「婁叡」の詳細全文を読む
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