翻訳と辞書
Words near each other
・ 婆蹉種相応
・ 婆蹉衢多三明経
・ 婆蹉衢多大経
・ 婆蹉衢多火喩経
・ 婆蹉衢多火経
・ 婆閏
・ 婇
・ 婈
・ 婉
・ 婉子内親王
婉容
・ 婉曲
・ 婉曲法
・ 婉曲表現
・ 婉曲話法
・ 婉曲語法
・ 婉曲迂遠
・ 婉貴妃
・ 婉貴妃 (乾隆帝)
・ 婉貴妃 (咸豊帝)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

婉容 : ウィキペディア日本語版
婉容[えんよう]

婉容(えんよう、Wǎn róng、1906年11月13日 - 1946年6月20日)は満州国皇后清朝最後の皇帝(宣統帝)にして満州国皇帝(康徳帝)の愛新覚羅溥儀の正妃。実家のから郭布爾皇后とも呼ばれる。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===

満洲旗人のゴベイル氏(Gobeir hala、郭布爾、郭布羅、郭博勒)の栄源(Žung-yuwan、ジュンユワン)の娘として1906年北京で生まれる。3世紀の詩人曹植の『洛神賦』から婉容と名づけられ、さらに同じ『洛神賦』に因み「慕鴻」の字を名乗る。
天津のミッション・スクールで西洋風の教育を受けて育つ。婉容が17歳の時、溥儀の正妻(皇后)として迎えられた。同時期に側室(淑妃)として文繍も溥儀の妻となる。当時、溥儀は紫禁城で西洋風の教育を受けており、スコットランド人家庭教師レジナルド・ジョンストンによりヘンリーの英語名を持った。婉容にも中国生まれの米国人イザベル・イングラムが家庭教師となり、エリザベスの英語名を与えられた。
溥儀、婉容、文繍の三人は紫禁城で平穏な生活を送る。1924年北京政変による清室優待条件の破棄により紫禁城を追放され、各国からの保護も拒否される。大日本帝国のみが溥儀らへの支援を表明し、天津市の日本租界の張園へ移住する。中華民国国内における内戦(国共内戦)の影響は天津には大きく及ばず、また紫禁城を離れたことで因習に囚われることなく、現代風で自由な生活を送った。
しかし、溥儀と婉容の夫婦仲は次第に冷めていく。原因は溥儀のインポテンツあるいはホモセクシャルとも言われる。こうした鬱屈した気分を晴らそうとした婉容はアヘンに手を出し、重度の中毒に陥った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「婉容」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.