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婉容(えんよう、Wǎn róng、1906年11月13日 - 1946年6月20日)は満州国の皇后。清朝最後の皇帝(宣統帝)にして満州国皇帝(康徳帝)の愛新覚羅溥儀の正妃。実家の姓から郭布爾皇后とも呼ばれる。 == 生涯 == === 生い立ち === 満洲旗人のゴベイル氏(Gobeir hala、郭布爾、郭布羅、郭博勒)の栄源(Žung-yuwan、ジュンユワン)の娘として1906年に北京で生まれる。3世紀の詩人曹植の『洛神賦』から婉容と名づけられ、さらに同じ『洛神賦』に因み「慕鴻」の字を名乗る。 天津のミッション・スクールで西洋風の教育を受けて育つ。婉容が17歳の時、溥儀の正妻(皇后)として迎えられた。同時期に側室(淑妃)として文繍も溥儀の妻となる。当時、溥儀は紫禁城で西洋風の教育を受けており、スコットランド人家庭教師レジナルド・ジョンストンによりヘンリーの英語名を持った。婉容にも中国生まれの米国人イザベル・イングラムが家庭教師となり、エリザベスの英語名を与えられた。 溥儀、婉容、文繍の三人は紫禁城で平穏な生活を送る。1924年、北京政変による清室優待条件の破棄により紫禁城を追放され、各国からの保護も拒否される。大日本帝国のみが溥儀らへの支援を表明し、天津市の日本租界の張園へ移住する。中華民国国内における内戦(国共内戦)の影響は天津には大きく及ばず、また紫禁城を離れたことで因習に囚われることなく、現代風で自由な生活を送った。 しかし、溥儀と婉容の夫婦仲は次第に冷めていく。原因は溥儀のインポテンツあるいはホモセクシャルとも言われる。こうした鬱屈した気分を晴らそうとした婉容はアヘンに手を出し、重度の中毒に陥った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「婉容」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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