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安帝(あんてい)は、後漢の第6代皇帝。第3代皇帝章帝の孫。父は清河孝王劉慶。母は側室の左小娥。 == 生涯 == === 即位 === 父は元々章帝の皇太子とされていたが、讒言により廃されて清河王に落とされていた。 幼いときから学問を好み、和帝にも可愛がられていた。 和帝の没後、殤帝が迎えられ、和帝皇后のが臨朝し、その弟の車騎将軍鄧隲と共に朝政を運営していたが、延平元年(106年)、殤帝がわずか2歳にして死去すると、13歳の安帝が擁立された。の臨朝は継続し、鄧隲が朝政を運営した。 同年の9月には西域で反乱が勃発し、12月には実父の清河王が死去した。 永初(107年)元年、2月には清河国が分割される一方、9月には鄧氏の母の陰氏に新野君が与えられた。この月に西域都護が廃止された。秋9月、太尉の徐防、司空の尹勤が免職され、張禹と周章が後任とされるが、11月には周章が帝位の廃立を目論んだとして誅殺された。この間、10月には倭国王帥升の使者が謁見し生口160人を献じた。12月、司空の後任として張敏が迎えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安帝 (漢)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor An of Han 」があります。 スポンサード リンク
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