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宅和 本司(たくわ もとじ、1935年7月18日 - )は、福岡県出身のプロ野球選手(投手)・監督、野球解説者。選手としては南海ホークス、近鉄バファローに所属した。 == 来歴・人物 == 福岡県立門司東高等学校時代はエースとして、秋の九州大会に出場し、優勝の原動力となる活躍を見せる。しかし、翌に学校上層部が余計な気を回し、春の選抜高等学校野球大会出場(同校春夏通じて初出場となるはずだった)を控える野球部員の学年末試験を免除し合宿をさせていた事実が発覚。これが問題視され一度は正式に選ばれた代表校の座を返上した。同校は一度も甲子園出場を果たせぬまま2009年3月に閉校となったが、閉校式後の懇親会において学校側から謝罪の気持ちを込めた功労賞が宅和ら当時の野球部OBに贈られた〔幻の甲子園に57年ぶり光、元南海・宅和さんらに功労賞 - 九州発:YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2009年3月4日閲覧〕。 に南海に入団。同期には野村克也、皆川睦男がいる。1年目からローテーション入りし26勝9敗、防御率1.58と活躍し新人王を受賞した〔年度別成績 1954年 パシフィック・リーグ 〕。同じ高卒ルーキーで後に名球会入りした 梶本隆夫(阪急)は 、20勝12敗、防御率2.73の成績を残しながら、その煽りを受け新人王を受賞できなかった。表彰タイトルには制定されていなかったが、奪三振数は275でリーグ最多を記録(当時パ・リーグ新記録だった)。新人の最多奪三振はこのあと、パ・リーグでは1980年の木田勇まで26年間出現しなかった。 このシーズン、宅和が首脳陣に信頼されていたことをうかがわせるエピソードとして、8月16日、平和台球場で行われた西鉄ライオンズ戦がある。この試合では3回裏1アウトで登板直後に打者高倉照幸への初球を暴投した白崎泰夫に代わってマウンドに上がり、勝利投手となった〔野球規則上は宅和に交代することができないはずだったが、審判始め関係者が誰も気づかず、規則の例外記録になった。試合終了後にこの事実に気づいた関係者が対応を協議し、「白崎が急に腹痛を起こしたため」という理由が付けられている。〕 。 翌も24勝を挙げ二年連続で最多勝のタイトルを獲得〔年度別成績 1955年 パシフィック・リーグ 〕。しかし3年目となるの6勝(5敗)を最後に一軍で勝ち星を挙げることはできなくなり、近鉄移籍後のに現役を退いた。故障もあって現役生活はわずか8年であったが、プロ入り最初の2年で50勝(20敗)を挙げるという驚異的な活躍と、その後の急速な衰え振りは余りに対照的で、プロ野球ファンに鮮烈な印象を残した。 現役引退後は日本球界では一度も現場復帰せず、長年毎日放送で野球解説者を務めた(テレビについては1974年まではNETテレビ系列、1975年以降はTBS系列でネットされる場合もあった)。に台湾プロ野球・三商タイガースからコーチとして招かれ、同年途中から監督に就任。シーズン終了後に退団、帰国した。その後、毎日放送系のCS局GAORAの野球解説者として活動した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宅和本司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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