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宇文化及[うぶん かきゅう]
宇文 化及(うぶん かきゅう)は隋の政治家、軍人。隋末の混乱期に独立して皇帝を僭称し許を建国した。宇文智及、宇文恵及の兄、宇文士及の異母兄。 == 来歴 == 北周の左翊衛将軍宇文述の長男として代郡武川鎮(現在の内蒙古武川県)に生まれ、若くから国都長安で育った。長安では「軽薄公子」と呼ばれていた。幼少の頃より楊広の寵愛を受け、煬帝の即位後は太僕少卿に任じられている。大業12年(616年)に父が死去するとその遺言により右屯衛将軍に任命された。 大業14年(618年)、叛乱を避け江南の江都(現在の揚州)に逃れたまま大興城へ帰還しようとしない煬帝に対し、司馬徳戡・趙行枢・薛世良らによる反乱が計画され、宇文化及はその指導者に推戴された。宇文化及は弟の宇文智及とともに禁軍を伴って宮中の煬帝を弑殺し、煬帝の弟である蜀王秀の子、秦王浩を擁立し自ら大丞相となり北上したが、王世充・李淵・李密らの勢力に阻まれ長安に入ることはできなかった。そのため楊浩を毒殺し魏県を根拠地として自ら皇帝に即位、国号を許、元号を天寿と定めた。 天寿2年(619年)、竇建徳に聊城で敗れると智及ら部下は処刑され、自らは子の宇文承基・宇文承趾とともに襄国に運ばれて斬首された。化及の首は突厥に嫁いだ文帝の宗室の娘である義成公主に送られた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宇文化及」の詳細全文を読む
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