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宇文 泰(うぶん たい、505年 - 556年)は、北魏・西魏の政治家。字は黒獺(または黒泰とも)。鮮卑の人であり、実質的に北周の基礎を築いた。実際に帝位には就いていないが、廟号は太祖、559年には文帝と追諡されている。 ==出生== 宇文泰の祖先は匈奴系の宇文部の族長であった。後漢末に宇文部は鮮卑連合部族に加わり、次第に鮮卑化が進んだ。 505年に代郡武川鎮(現在の内蒙古武川県)で生まれた。北魏末年の六鎮の乱に際しては、父宇文肱と共に鮮于修礼に従い挙兵、鮮于修礼が爾朱栄によって鎮圧されると、続いて爾朱栄の部将の賀抜岳に従った。 530年、北魏の孝荘帝によって爾朱栄が殺害されるという事件があり、爾朱氏の実権は次第に縮小し、最終的には滅亡の途を辿る。その結果高歓が丞相の地位に就くが、北魏の孝武帝は賀抜岳を用いて高歓を牽制するようになった。賀抜岳が関西大行台となると、その左丞・領台府司馬を務め、その軍政の議決に参与するようになった。 ところが534年、賀抜岳が殺害されたことで宇文泰は周囲に推されて総帥となる。後に孝武帝に上表し、高歓の専横を除いて皇室を扶翼することを誓い、孝武帝も詔勅を以って宇文泰を大都督、雍州刺史兼尚書令に任じた(高歓は同年に東魏を建てた)。その後535年には都督中外諸軍事・大行台となり、安定公に封ぜられ、548年には太師・大冢宰まで進んだ。 名実共に北魏の実力者になった宇文泰であるが、その勢力が拡大するにつれて、制限を受ける孝武帝の不満が高まっていった。534年12月、対立の溝が埋まらない状況で、宇文泰は孝武帝を殺害し、孝文帝の孫で京兆王元愉の嫡子である元宝炬(文帝)を擁立した。こうして西魏が成立するが、実権は全て宇文泰が掌握していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宇文泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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