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宇文 逸豆帰(呉音:うもん いちずぎ、漢音:うぶん いつとうき、拼音:Yŭwén Yìdòuguī、生没年不詳)は、匈奴系鮮卑族宇文部の最後の大人(たいじん:部族長)。『周書』では侯豆帰と書かれ、宇文莫那から9世目にあたるとされる。のちに、逸豆帰の直系の子孫が北周を建てた。 == 生涯 == 宇文別部の逸豆帰は宇文部大人の乞得亀を殺し、自ら大人(たいじん:部族長)となった。慕容部の慕容皝がさっそく騎兵を率いてこれを討とうとするが、逸豆帰は恐れて講和を申し込んだため、慕容皝は榆陰・安晋の2城を築いて還っていった。 咸和8年(333年)5月、慕容廆が死ぬと、慕容部内ではその息子の慕容皝と慕容仁との間で内乱がおき、慕容仁が自ら車騎将軍・平州刺史・遼東公を称すと、逸豆帰の宇文部・段遼の段部ら鮮卑族諸部は、慕容仁側についてこれを支援した。しかし、宇文部・段部はそれぞれ慕容皝と戦うもことごとく敗れた。 逸豆帰はその国相の莫浅渾を遣わし慕容皝を討つが、慕容皝は撃って出ない。莫浅渾はこれに疲れ、酒を飲んだり狩猟をしたりしたので、警備など全くしなくなった。すると慕容皝は兄の慕容翰を派遣してこれを撃たせ、莫浅渾は大敗し、わずか身一つで逃れ、慕容翰はその衆をことごとく捕虜とした。 建元2年(344年)2月、慕容皝は自ら騎兵2万を率い、慕容翰及び慕容垂を先鋒として逸豆帰を親伐した。逸豆帰はその騎将の渉亦幹を使い慕容翰を防いだが、渉亦幹は慕容翰に斬られ、その衆をことごとく捕虜とされた。逸豆帰は遠く漠北へ逃げ、高句麗へ亡命し、ここに宇文部は滅んだ。 そののち、逸豆帰の子の陵は前燕に仕え、駙馬都尉を拝命し、玄菟公に封じられた。前燕の滅亡後は、やがて再興した後燕に、続いて北魏に仕えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宇文逸豆帰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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