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宇文邕 : ウィキペディア日本語版
武帝 (北周)[ぶてい]

武帝(ぶてい)は、北朝北周の第3代皇帝。姓は宇文(よう)。西魏の実力者宇文泰の四男。
==生涯==
初代皇帝孝閔帝宇文覚は、補佐役で従兄でもある権臣宇文護の専横を排除しようと図ったため廃位され、殺害された。その後を継いだ庶長兄の明帝宇文毓もまた、名君の資質を恐れた宇文護によって暗殺され、明帝の遺言によって宇文邕が即位した。
武帝の性格は、冷静沈着で深謀遠慮であり、即位当初は政治に積極的に参与することを避け、自分が裁決する場合は、他の者の意見を聞いてその言葉の通りにしていた。外交の基本方針は、南朝とは友好関係を結び、東の北斉を攻撃するというものだった。そのために突厥と同盟して北斉を攻撃することもあった。また、儒教仏教道教に関する討論会を数次にわたって開き、儒者僧侶道士の指導者たちに行わせ、その優劣を競わせていた(三教談論)。
天和7年(572年)、地方から首都長安に戻った宇文護を誅殺し、親政を開始した。
建徳3年(574年)、道教仏教をともに廃止したが、仏教・道教の研究機関として通道観を設置し、120名の通道観学士を選任した。寺院の破壊と財産の没収、僧侶還俗を行って財産を没収し、税賦を逃れる目的で僧籍に入る者を還俗させて税を取ることで財政改善を狙った(三武一宗の廃仏)。
建徳2年(573年)、陳の宣帝陳頊が名将呉明徹を遣わして北斉軍を討ち破り、寿陽など江北の九郡を奪った。陳の攻撃で弱った北斉に、これらの富裕な土地を奪還する能力が欠如していると判断した武帝は、建徳4年(575年)に北斉への本格的な攻撃を開始し、建徳5年(576年)には平陽晋陽を奪い、翌建徳6年(577年)、首都のを包囲するに至った。北斉軍は戦意乏しく、後主高緯や皇族たちは逃亡を企てたが、間もなく青州で捕まえた。こうして北斉を滅ぼし、北魏の東西分裂以来四十数年ぶりに華北が統一された。武帝は、北斉の旧皇族である高一族や北斉の臣下たちに寛大な処置で臨み(ただし、高一族は後に族滅している)、最後まで北斉に忠実だった者は厚遇した。そのうち李徳林は法律制度を整備するために重用された。また宗教政策では旧北斉領内においても、仏道二教の廃毀を断行した。
このように武帝は、親政後に、一方で周礼を理想とし、その一方で鮮卑への復古も標榜する北周朝の政策に則って、仏道二教を廃止したが、その後の武帝に対する二教の評価は、正反対の方向に向かう。大打撃を被った仏教教団では、下に示す仏教説話に見られるように、その廃仏により仏罰を受けたとする説話が流布されるようになった。その一方で、元来の教団規模が仏教に比して小規模であり、また、出家修道を基本とする仏僧とは異なる道士で構成される道教教団では、正反対の話説が行われることとなる。つまり、武帝は、道教の外護者であり、上記の通道観においても、道教の経典研究を行い、道教典籍を編纂していた、とする説である。そして、その典籍は、後世に伝わり、「道蔵」中に収録されている。『無上秘要』という道教類書が、それである。
宣政元年(578年)、彭城で陳軍を破って呉明徹を捕らえた。武帝は呉明徹を懐徳公に封じるなど厚遇した。同年、突厥に親征を企てたが、出発後に罹病し、間もなく崩御した。享年36(満34歳没)。
遺骸は長安の郊外に葬られた。墓は1990年代に盗掘されたが、その際に政府当局によって金印など盗品の一部が回収された。その後、墓は緊急発掘された。墳丘はなく、方形に近い墓室から南に墓道が延びる形状であった。墓道の脇に多数の副葬品を納めた4つの部屋が設けられており、副葬品の水準は北斉の皇帝より質素なものであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Wu of Northern Zhou 」があります。



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