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宇津峰宮[うづみねのみや] 宇津峰宮(うづみねのみや、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族。諱・系譜ともに不詳であるものの、近世の俗書においては、後醍醐天皇の孫で、中務卿尊良親王の王子に当たるという守永親王(もりながしんのう)に比定されることが多い。宮号は、北畠顕信に奉じられて陸奥宇津峰城に拠ったことに由来する。 == 経歴 ==
興国4年/康永2年(1343年)常陸合戦の戦況が好転しない最中に吉野から下向し、5月常陸関城の北畠親房に迎え入れられた。同年11月に関城・大宝城が陥落した後は、残兵に守られながら陸奥に逃れ、北畠顕信の宇津峰城に入ったとみられる。正平2年/貞和3年(1347年)7月奥州管領吉良貞家・畠山国氏ら北軍の攻撃を受け、9月に宇津峰城が陥落すると、顕信に奉じられて一旦出羽(庄内地方か)へ逃れた。その後に足利一族間の内訌(観応の擾乱)が地方にも波及して、吉良・畠山両管領の分裂が激しくなると、正平6年/観応2年(1351年)10月伊達宗遠や田村庄司の一族を率いて多賀国府を攻撃して奪回し、11月には吉良貞家を名取川に破って伊具館へ敗走させた。正平7年/観応3年(1352年)閏2月尊氏の党を討たんとする顕信に奉じられて伊達郡へ出陣したが、3月その隙を突いた吉良貞経によって国府が再び占領されたため、顕信とともに三沢城から大波城へ逃れ、やがて宇津峰城に籠城する。以来1年有余に及ぶ貞家との攻防戦を経て、翌正平8年/文和2年(1353年)5月に宇津峰城が陥落すると、顕信・守親父子に奉じられて再び出羽へ逃れた。しばらくは出羽の各地に潜伏して奥羽南軍の統率に当たったとみられるが、以後の消息は明らかでない。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宇津峰宮」の詳細全文を読む
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