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安井息軒 : ウィキペディア日本語版
安井息軒[やすい そっけん]

安井 息軒(やすい そっけん、寛政11年1月1日1799年2月5日) - 明治9年(1876年9月23日)は江戸時代儒学者。名は衡、字は仲平、息軒は日向国宮崎郡清武郷(現・宮崎県宮崎市)出身。その業績は江戸期儒学の集大成と評価され、近代漢学の礎を築いた。門下からは谷干城陸奥宗光など延べ2000名に上る逸材が輩出された。妻の佐代は、森鴎外の歴史小説『安井夫人』のモデル〔鷗外『安井夫人』関係文献と情報 一覧 日高貢一郎、大分大学〕。
有名な言葉としては「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」
== 生涯 ==
安井息軒は飫肥藩士・安井滄洲の次男として、清武郷中野(現・宮崎市)に生まれた。幼名は順作。家は代々飫肥藩主の伊東家に仕えた。
幼少の頃天然痘に罹り、顔面の疱瘡痕で片目が潰れた容貌になった。学者であった父の影響を受けて学問を志し、21歳の時、大坂篠崎小竹、文化7年(1810年)江戸昌平坂学問所古賀侗庵に、また松崎慊堂に師事した。その頃塩谷宕陰(とういん)と並んで双璧と称された。
文政10年(1827年)、飫肥藩主伊東祐相に呼ばれ清武郷に帰り、侍読となり、森鴎外小説安井夫人』に登場する川添佐代と結婚。郷校明教堂」、藩校振徳堂」で助読に任ぜられ、父と共に教鞭を揮った。傍ら藩政に参与するようになった。
藩主が安井を重用して進める藩政改革を喜ばない保守派の忌避に遭い〔藤沢周平著 『藤沢周平全集 第7巻』 文藝春秋 1993年 42ページ〕、天保8年(1837年)40歳の時、江戸に出た息軒は、芝増上寺の僧寮に入り、ここでさらに礼楽(らいがく)、兵制、刑法について深く考究するところがあった。天保9年(1838年)、家族と共に江戸に移住し、私塾「三計塾」を開く。「一日の計は……」はこの三計塾の設立主旨。文久2年(1862年)幕府に招かれて昌平坂学問所の儒官となった。禄二百俵を給された。
塩谷宕陰木下犀譚芳野金陵らと親しく交流するとともに「文会」を主宰し、互いに切磋琢磨する。「文会」には藤田東湖ら新進気鋭の学者らが次第に加わり、やがて時勢を論じ合う場にも変化した。
黒船の来航による混乱の中、息軒は水戸藩儒であった藤田東湖を介して幕府攘夷派の中心人物であった水戸斉昭に意見を求められ、『海防私議』『靖海問答』などを上書するが、斉昭は安政の大獄のさなかに没してしまい、この意見が用いられることはなかった。
文久2年(1862年)には塩谷、芳野らとともに幕府儒官を拝命し「文久三博士」と称される。
元治元年(1864年)には奥州代官に任命されるが高齢ゆえの周囲の反対により赴かずして免官、戊辰戦争の際には、領家村(現埼玉県川口市領家)に疎開、『北潜日抄』(埼玉県指定有形文化財)を著した。
明治元年(1868年)、幕府崩壊により身分も飫肥藩籍に戻り、飫肥藩江戸屋敷で塾生の教育に尽力するも、明治5年(1872年)の学制発布により塾生は激減、自らも高齢により視力が衰え、四肢不自由となる。持ち前の不屈の精神で最後まで筆を離さず『睡余漫筆』を書き綴った。
明治9年(1876年)9月23日午後7時、77年の生涯を東京で終えた。遺体は東京・千駄木養源寺に埋葬され、現在東京都史跡に指定されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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