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安倍東人[あべ の あずまひと] 安倍 東人(あべ の あずまひと、生年不詳 - 延暦18年1月28日(799年3月9日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。姓は阿倍とも記される〔 『続日本紀』神護景雲3年9月16日条以前は「阿倍」と記す。〕。参議・阿倍沙弥麻呂の子とする系図がある〔栗原信充著『玉簾』(無窮会文庫蔵)所収「安倍氏系図」「校正阿倍朝臣系図」〕。官位は従四位上・治部卿。 == 経歴 == 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱後に従五位下に叙爵〔『続日本紀』天平宝字8年10月7日条〕。天平神護3年(767年)伊勢守を務めていたが、同国度会郡の等由気の宮(現在の豊受大神宮)の上に五色の瑞雲が立ち上って宮の上を覆ったとして、雲の形を書写して進上した。この頃平城京でも同様に瑞雲が見られ、これらをきっかけとして神護景雲への改元が行われ、東人は従五位上に昇叙された〔『続日本紀』天平神護3年8月16日条〕。 神護景雲3年(770年)称徳天皇の崩御後まもなく中務大輔に任ぜられて京官に復帰し〔『続日本紀』神護景雲3年8月22日条〕、次いで宮内大輔に転じる〔『続日本紀』神護景雲3年9月16日条〕。光孝朝では大蔵大輔〔『続日本紀』宝亀3年11月9日条〕・豊後守〔『続日本紀』宝亀7年3月6日条〕などを歴任したのち、宝亀10年(779年)正五位下〔『続日本紀』宝亀10年正月23日条〕、宝亀11年(780年)正五位上〔『続日本紀』宝亀11年正月7日条〕、天応元年(781年)桓武天皇の即位に伴い従四位下と〔『続日本紀』天応元年4月15日条〕、光孝朝末から桓武朝初頭にかけて順調に昇進した。 桓武朝では刑部大輔〔『続日本紀』延暦元年2月7日条〕を経て、延暦4年(785年)従四位上〔『続日本紀』延暦4年8月7日条〕・刑部卿〔『続日本紀』延暦4年7月29日条〕に至る。 延暦18年(799年)1月28日卒去。最終官位は散位従四位上。〔『日本後紀』延暦18年正月28日条〕
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安倍東人」の詳細全文を読む
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