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安北府の戦い[やすきたごのたたかい] 安北府の戦いとは、1231年10月21日にサルタク・コルチ率いるモンゴル軍と、高麗の正規軍である三軍が野戦において激突した戦いである。敗北した高麗は、モンゴル軍に正面から抗しがたいことを悟り、これ以後は海島や山城に拠る堅壁清野戦術で対抗することになる。 ==背景== 高麗は1219年の江東城の戦い以降、モンゴル帝国と兄弟の盟約を結んで歳貢を納めていた。しかし、1225年に帰国途中のモンゴル使臣が、鴨緑江近辺で何者かに殺害されると国交が断絶。1229年に第2代モンゴル皇帝に即位したオゴデイ・カアンは、使者殺害の罪を問うという名分のもと、サルタク・コルチ(撒里塔火儿赤)率いる一軍を高麗へ派遣した。 1231年8月下旬に鴨緑江を渡り高麗領内に侵攻したモンゴル軍は、短期間で義州、鉄州、静州を攻略。モンゴル軍の先鋒隊は、亀州や慈州など抵抗の激しい城は残したまま南下を急ぎ、9月10日に西京、9月14日には黄州と鳳州にまで到達する。 高麗の兵制では、38領3万8000人の保勝軍・精勇軍の中から三軍を編成して有事にあたることになっていた〔矢木1998、310頁〕。高麗の実権を握る武臣政権の崔瑀は、9月2日に三軍の進発を決定。大将軍の蔡松年を北界兵馬使に任命し、諸道の兵を招集させた。更に馬山の草賊から精兵5000人、冠岳山の草賊から賊魁5人と精鋭50人も高麗軍に加わった。 9月下旬、三軍は黄州の洞仙駅でモンゴル軍の先鋒隊を撃破して北上。一方、サルタク率いるモンゴル軍本隊も、9月29日に宣州、郭州を攻略して南下する。
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