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安原 顯(やすはら けん、1939年4月29日 - 2003年1月20日)は日本の編集者、評論家。東京都目黒区緑が丘出身。本名の読みは「あきら」。名前を簡略体で「安原顕」と表記することもある。 早稲田高等学院をへて、早稲田大学文学部仏文科中退。自称「天才ヤスケン」。チリチリパーマの髪に、サングラスと髭という独特の容貌で、評価は毀誉褒貶あるが、独特の「名物編集者」であった。なお、髭をはやしたのは、太った体形が「おばさん」的で、ある時、すれちがった女子高生に「今のおばさん、おじさんみたいだね」といわれてショックを受けたからだという。 妻・筑土まゆみの父は、僧にして宗教民俗学者の筑土鈴寛(つくどれいかん)。娘の安原眞琴は日本文学研究者で著書もある。 ==人物・略歴== === 生い立ち、竹内書店入社 === 緑が丘に生まれ育つ。父親は、サラリーマンだったが、切手やレコードのコレクションも行っている「趣味人」だった。だが、1944年、安原が5歳のときに、父親が肺病で死去。 戦後、母親、安原と妹の3人は、大井町にある母方の祖父宅に同居する。だが、祖父は「父系主義者」で、2年後に、「亡くなっていた次男」の嫁と2人の孫を呼びよせて、彼等を「内孫」、安原兄妹を「外孫」と差別するようになる。この際に感じた屈辱が、のちの安原の「罵倒的な批評」活動につながっていく。 大田区立大森第三中学校へ進学。図書委員になり、読書に目ざめる。また、父親が残していたクラシックのレコードから音楽に目覚め、FENから聞こえる洋楽ポップスを聞いて歌を覚え、自分でも英語で歌っていた。 だが、都立の志望校受験に失敗し、1955年に母親の出身校である、戦前は女子校であった東京都立八潮高等学校に進学。しかし、「元女子校に通う」というのが安原のプライド上許さず、半年後に中退。翌1956年に早稲田高等学院へ再入学。学校の図書館で、文学、思想、芸術に関する書籍を数多く読んだ。2年生の時は、アルバイトで、大学生のハワイアン・バンドにボーカル兼コンガ奏者として参加し、キャバレーやダンスホールで歌い、演奏した。また、ジャズにも目覚めてジャズ喫茶などにも盛んに通い、ジャズ・シンガーを夢みていたころもあったが、ジャズ大会に出場して歌っても、だいたいが「鐘一つ」で、自分の声はジャズ向けではないと、あきらめた。なお、2年から3年に進級する際に、落第して2年生を2回やっている。 早稲田高等学院時代の学友には、露木茂、渡辺武(のち日本郵船)、昆田文彦(のち古河電工)らがいた。 1960年、早稲田大学仏文科に進学すると、祖父の家を出てアパートに住む。母親には「学費を払ってくれれば、生活費は自分で稼ぐ」と宣言するが、「天才は働かない」と友人たちには言い、実益も兼ねて、本屋で本を万引きし、読み終わったら古本屋に売る、という生活を送るようになる。ついには、万引きの名人になり、生活用品も盗むようになった。また、アパートの隣に住んでいた、高校時代からの友達の部屋から、米を盗んだりもした。 大学の同級生では原葵(のち、翻訳家)、中川道弘(歌人、古書店・上野書店店主)らと親しくなった。 21歳の時、のちに妻となる1学年先輩の、早大文学部の筑土まゆみと出会い、彼女の親族の反対を振り切って同棲。彼女はきちんと4年で大学を卒業し、博報堂に就職してコピーライターとなるが、安原が「女に食わせてもらう」事に耐え切れなくなり、退職を余儀なくされることとなった。 安原のほうは、マスコミの試験をいくつも受けるが、ほとんどが一次試験で落とされた。1964年、25歳にしてようやく、まだ無名の池田満寿夫の紹介で、『早稲田公論』編集者となるが、すぐに廃刊となる。次にミュージック・マンスリー社に入社するがこの会社も解散。のち、洋書の販売をしていた、竹内書店に入社し、翻訳物の単行本を企画。1968年には季刊『パイディア』を創刊。現代思想や、先鋭的な文学を紹介。第7号からはジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳連載が、大澤正佳をはじめとする東京都立大の研究チームにより開始。終刊号の「フーコー特集」を担当した中野幹隆は、のちに『現代思想』『エピステーメー』を創刊している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安原顯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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