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安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。 == 概要 == 織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城であった伏見城(桃山)から、このように呼ばれる。特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶ。ただし、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられたことから名付けられたもので、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではない。そのため、歴史的経緯を尊重するなら「伏見時代」の方が適切な呼称となるが、そもそも、安土城は完成からわずか3年余りしか存在しておらず、伏見城(指月城と木幡山城)についても文禄元年(1592年)の築城から秀吉の死までわずか7年であったなど、それぞれ在城は短期間であり、これらを時代の呼称に用いること自体が適切ではないという主張もある(ただし秀吉の死後、家康が伏見城で政務を執っている)。そのため、近年は織豊時代という呼び方も広まっており、安土大坂時代や天正時代、大坂時代の呼称を提案する識者もいる。 安土桃山時代の始期と終期には複数の見解が存在する。始期は、織田信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(1568年)、義昭が京都から放逐されて室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれた元亀4年(1573年)、安土城の建設が始まった天正4年(1576年)とする考えもある。終期は、豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などがある。何れにしても、「織田・豊臣の時代」という概念をどこで区分するかの違いではあるが、室町時代、戦国時代と重複してしまうことが、その定義を難しくしている。 美術史では、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に「桃山文化」「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分とする。それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。当時の文化的中心であった京都および周辺地域では、秀吉を継いだ秀頼によりなおも活発な社寺建設が行われていたし、それに倣って各地でも作事が活発であり、関ヶ原の戦いによる政権交代によって文化的断絶までが生まれたわけではなかった。だが豊臣家が滅亡した元和偃武以後、世相の安定を背景に、桃山文化は変質していき、一方では洗練の度合いを増し桂離宮などの瀟洒な数寄屋建築を生みだしたし、他方では日光東照宮や武家の御殿など豪華さを競うバロック的傾向を強めていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安土桃山時代」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Azuchi-Momoyama period 」があります。 スポンサード リンク
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