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アムド( ''a mdo''、、拼音: Ānduō)は、チベット(チベット高原)を構成する地方のひとつで、その東北部を指す。 伝統的にチベット人とともにオイラトのホシュート部を中心とするモンゴル人や一部のテュルク系などが多数居住してきた。当地に居住するチベット人はアムド方言を用い、アムドーワ(a mdo ba)と自称した。 現在も青海省には多数のチベット仏教寺院が残り、チベット人・モンゴル人の僧侶によって守られている。 ==歴史== 吐蕃王朝によるチベットの建国に先立ち、この地には鮮卑慕容部の支族である吐谷渾身・ཨ་ཞ།(とよくこん/アシャ)が勢力を張っていた。 吐蕃王朝によるチベット高原の統一と実質的な建国(7世紀)ののち、吐谷渾/アシャはチベットと中国との間で争奪の対象となった。吐蕃政権と中国の隋・唐王朝の抗争は、チベット側の勝利におわり、吐谷渾の君主は「アシャ王」の称号と王国組織を維持したまま吐蕃王家に臣従した。 9世紀、吐蕃王朝の崩壊ののち、吐蕃王室の皇子がこの地に逃れ、小政権を樹立した〔中国側の呼称に即して「青唐王国」と呼ばれる。山口,1988など〕。 17世紀初頭、モンゴルの大ハーン、リンダン・ハーンに忠実なハルハのチョクト・ホンタイジがこの地を制圧した。リンダン・ハーンが病死し、その嫡子エジェイがアイシンギョロ朝アイシン国に降伏すると、チョクトは自身の称号をハーンと改め、「チョクト・ハーン」を称した。 チョクトは1637年、オイラト諸部の軍勢を率いて遠征してきたオイラト部族連合の盟主トゥルバイフに敗死した。トゥルバイフはラサにのぼり、ダライラマ五世から「護教法王(テンジン・チョェキギェルポ/シャジンバリクチ・ノムンハーン)」の称号をさずかり、オイラトの首長としてははじめて「ハーン」の称号をなのった〔宮脇淳子「オイラット・ハーンの誕生」(『史学雑誌』100-1、1991年)〕。 トゥルバイフは、ジュンガルのバートル・ホンタイジら同盟部族の首長らに報償を与えてオイラト本国に戻す一方、自身の皇子たちとホショト部の直属の部民たちをこの地に呼び寄せ、この地を本拠として1640年〜42年にかけてチベット各地を平定、1642年、陥落させたばかりのツァントェ王のサムドゥプツェ宮殿において、「チベット三州の王」に即位した。同時にダライラマ五世に対し、ツァントェ王の旧領にほぼひとしい「チベット十三万戸」(=ヤルンツァンポ河流域)が寄進され、そのチャンズーパ(財務係)に、パクモドゥパ政権や歴代ツァントェ王に受け継がれてきた称号「デシー」が与えられ、ダライラマ政権が発足した。ダライラマ政権における「デシー」職には、「摂政」という訳語が当てられることが多い〔石濱裕美子、宮脇淳子、山口瑞鳳など〕。 トゥルバイフにともなわれてチベット征服に従事し、そのまま青海湖の西方にひろがるシャラ・タラの地(青海草原)に住み着いたホショト部やその他のオイラト系遊牧民たちは、青海ホショト、青海オイラト〔佐藤,1986〕と呼ばれるようになった。 グシハンの子孫たちは、1723年-24年に清朝の雍正帝から攻撃をうけて屈服し、、ダライラマの後継者を決定する権利、チベット王権、チベット各地の直轄地や諸侯に対する支配権などをすべて剥奪された〔石濱裕美子,1988.3,2001〕。 青海オイラトは清朝により盟旗制のもと30旗に再編され、青海草原とその上にくらすオイラト系遊牧民を30家で分け合う小規模領主となり、理藩院を通じて清朝より所領の安堵を受けることとなった。 そのほか、土司として、兵部を通じて清朝より所領の安堵をうけるアムド地方の諸侯には、次のようなものがある。 *チョネ王(卓尼土司) 青海オイラト30旗と、その南方〔カム地方北部。現玉樹チベット族自治州に相当〕を領するナンチェン王の所領は、清朝のもとでまとめて「藩部の青海地方」と位置づけられ、甘粛省の西寧に駐箚する西寧弁事大臣を通じて清朝の支配を受けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アムド」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Amdo 」があります。 スポンサード リンク
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