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安宅丸(あたけまる)とは、寛永9年(1632年)に徳川家光が向井将監に命じて新造した軍船形式の御座船である。別名は天下丸。 2年後の寛永11年(1634年)に伊豆の伊東で完成。翌年の6月2日には品川沖で家光が試乗し、その後に江戸深川に係留された。最も信頼できる史料である〔『国史大辞典』による〕『安宅御船仕様帳』・『安宅御船諸色註文帳』によると、全体は和洋折衷の船型で船首に長さ3間の竜頭を置き、竜骨の長さが125尺(38メートル弱)、肩幅が53.6尺(約20メートル)で推定排水量が1500トン、艪(ろ)数は2人掛りの100挺であった。上部は安宅船に準じた日本式の軍船艤装を施し、二層の総矢倉で船首側に二層の天守を備え、その巨大さから、「日本一の御舟」〔『東海道名所記』〕などとよばれ、江戸の名物の一つでもあった。外板の厚みは一尺もあり当時の関船を主力とした他の大名の水軍力では破壊は不可能であり、さらに防火・船喰虫対策に船体・上構総てに銅板を張っていた。 しかし、あまりに巨大であったため大艪100挺でも推進力が不足であり、実用性がなく将軍の権威を示す以外にはほとんど機能しなかったとされる。これについては、「浅い喫水も併せて、江戸防衛の為の移動要塞としての任務が主なため」との意見もある。また、建造を命じたのは徳川秀忠であり、その後に将軍職を襲った家光によって絢爛豪華な装飾が付けられたという〔石井謙治 『日本の船を復元する』(学習研究社 2002年)〕。 維持費用が大きく、奢侈引き締め政策の影響〔『徳川実紀』には「古今比類なき大船なので、水主・揖取をはじめ関わる人は数百人いる、結果的に一年に十万石の税が必要といわれた。よって堀田正俊が、下々の奢侈を禁止するためにも、まずお上が無駄な費用を省くべきであると建議し、解体に至った」とある。〕もあり、天和2年(1682年)に幕府によって解体された。以後は、関船系の「天地丸」が幕府の最大艦となった。 後年には、巨大さ・豪華さのために多くのテキストに記述されたが、ほとんどの場合に誇張や誤りがあり、『徳川実紀』ですら誤伝を採録している。また、「蔵の中で伊豆に帰りたがった」「解体後の板を穴蔵の蓋に用いていたが、それを安宅丸の魂がゆるさず召使いの女に憑いて主人を脅し蔵を作りかえさせた」などの民俗伝承も生まれた。 == 関連項目 == * 御座船 * 安宅船 * 東京都観光汽船 - 御座船「安宅丸」を観光船として運航(両備ホールディングス所有の「備州」を借受・改名) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安宅丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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