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安岡 章太郎(やすおか しょうたろう、1920年4月18日〔『戦後文壇放浪記』あとがきに、戸籍の上では5月30日だが、実際は4月18日が誕生日だと記している〕 - 2013年1月26日)は、日本の小説家。 == 生涯 == 高知県高知市帯屋町に父・安岡章、母・恒の子として生まれる。父方は、安岡正美(覚之助)や安岡正定(嘉助)などの土佐勤王党員を多くだした郷士の安岡家であり、幕末は板垣退助率いる土佐藩迅衝隊に加わり戊辰戦争を戦った勤皇家である。母方の入交家も江戸時代は郷士だったという。章太郎の父は陸軍獣医官であったため、生後2ヶ月で千葉県市川市に転居〔斉藤明美『家の履歴書 文化人・芸術家篇』キネマ旬報社、2011年、p200-203〕。その後、香川県善通寺市、東京小岩、市川市で過ごした後、5歳の時、一家で京城(現・ソウル)に移った〔。小学校3年の時、青森県弘前市に転居〔。小学校5年から東京青山、目黒などで育った〔。 青南小学校から第一東京市立中学校に入学するが、素行不良のため教師の実家の禅寺に寄宿生活を強いられる。この生活は3年に肋膜炎を患うまで続いた。 青南小学校以来軍隊除隊までの劣等生への風当たりは小説やエッセイで再三文章にしており、病気、落第と共に彼の重要な文学的動機になっている。 1939年浪人生活を城北高等補習学校で送り、毎日古山高麗雄と遊び歩いた。松山高等学校(現在の愛媛大学)などの受験に失敗し、1941年慶應義塾大学文学部予科に入学するも、1944年陸軍に学徒動員で召集され東部第六部隊へ入営し満州に送られた。部隊では射撃の最優秀兵であったが「銃の手入れが悪い」と叱責される模範的でない兵隊であった。翌年肺結核により除隊処分となり内地送還された。なお、部隊はその後に全滅し数少ない生き残りとなる。 戦後、復学するも陸軍少将の父は敗戦により失職し、復員後も公職にはつけなかった。そのため、家族は収入のほとんどを失った。結核菌による脊椎カリエス(結核性脊椎炎)を患い、大きな肉体的・精神的苦痛の中1948年英文学科を卒業(当時卒業を認めるとの案内が学校よりあったが、月謝と三田会費を支払えず、卒業成績証明書だけ貰って免状は授与されなかったという)する。その当時コルセットをつけながら、吉行淳之介や阿川弘之と盛り場などを遊び歩いたと言う。 1951年『ガラスの靴』が芥川賞の候補作に選ばれ、文壇に注目される。1953年、選考委員の評価が真っ二つに割れながらも『悪い仲間』・『陰気な愉しみ』により、芥川賞を受賞し、1954年には脊椎カリエスが快癒(自然治癒したが、その為背丈が数センチ縮んだという)。創作活動に意欲的に取りくむ。『流離譚』では土佐藩での祖先の事跡を調査、『果てもない道中記』では中里介山『大菩薩峠』を論じた。 1960年代初頭にロックフェラー財団の基金でアメリカ留学、テネシー州ナッシュビルに滞在する。その後もアメリカに対する関心を深くもち、アフリカ系アメリカ人の先祖を探った作品『ルーツ』(アレックス・ヘイリー著)の翻訳もしている。 批評家としても文壇の評価が高かった安岡は、芥川賞をはじめ大佛次郎賞や伊藤整文学賞選考委員も務めた。また学校国語教科書に、1955年著の「サアカスの馬(サーカスの馬)」が採用されている。 2013年1月26日、老衰により死去〔「海辺の光景」…作家・安岡章太郎氏が死去 読売新聞 2013年1月29日閲覧〕。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安岡章太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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