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安東聖秀[あんどう せいしゅう] 安東 聖秀(あんどう せいしゅう/しょうしゅう、生年不明 - 元弘3年/正慶2年(1333年))は、鎌倉時代末期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。通称は左衛門入道。姪に新田義貞室。 正中元年(1324年)、正中の変で捕縛され鎌倉へ連行された日野資朝・日野俊基の尋問を担当する。元弘3年/正慶2年(1333年)、幕府方として従軍し、鎌倉へ侵攻してきた新田義貞軍と稲村ヶ崎の稲瀬川で戦うも敗北した。 『太平記』によると、北条高時ら一門が東勝寺で自害した事を知った聖秀は、稲村ヶ崎から僅かな手勢を率い、死に場所として灰燼と帰した高時の邸宅へ向かった。焼け落ちた高時の屋敷前で、義貞から降伏を促す書状〔義貞の妻(聖秀の姪)も一文を書き付けたとある。〕が届くも、聖秀は項羽と王陵の故事を引き合いに出し、降伏を拒絶して自刃した。 == 脚注 ==
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安東聖秀」の詳細全文を読む
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