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安永一(やすなが はじめ、1901年(明治34年)12月3日 - 1994年(平成6年)2月2日)は、アマチュアの囲碁棋士、囲碁評論家、ライター。兵庫県氷上郡出身。木谷実、呉清源と共著の『囲碁革命 新布石法』は特に有名。アマチュア棋士としても実力は一流で、中国流布石を創始したとも言われる。プロ棋士の育成もし、門下に小松英樹、谷口敏則、吉岡薫らがいる。 「天下の素浪人」を自称。著作では「拙安永一」と記述していた。叔父の広月絶軒は本因坊秀哉の著作の執筆を行った、囲碁ライターの草分け。 ==経歴== 東京の叔父(臨済宗の住職)のもとで育ち、府立一中、蔵前工専に進み、東北帝国大学数学科中退。本因坊秀哉門下で四段まで昇ったが、プロ棋士としては活動せず、日本棋院設立後の1932年から「棋道」誌編集長など務めた。 1933年の秋の大手合で木谷実と呉清源が新布石を実践し話題となり、その暮れに木谷、呉の研究に安永が加わり、翌年平凡社から「囲碁革命 新布石法」として出版し、ベストセラーとなった。安永はこの時の主なライターとされる。 愛用していた小目からのシマリを省略する布石法を紹介し、日本より中国で流行した。この布石は後に中国流布石と呼ばれる。 1934年の日満華囲碁親善使節団に、木谷、呉、田岡敬一らとともに参加。1938年の皇軍慰問団では、安永が囲碁団長となった。 1937年に雑誌「囲碁春秋」誌を岩谷書店から発刊して主幹となり、編集長は野上彰が務めた。誌は1974年まで続き、アマチュア棋戦や、プロ棋士によるアマチュア指導碁などを多く掲載した。安永自身の対局も多数掲載され、ベテランプロには安永先番、若手プロやアマチュア強豪相手には、安永白番が多い。 1947年に日本棋院の若手棋士8名が囲碁新社を設立して脱退した際には、その趣意書を依頼されて執筆した。 経営する東京囲碁会館では、後にプロ入りする影山利郎らを育成。1962年の全日本アマチュア囲碁連盟設立時には理事長に就任。 日中囲碁交流において中国代表団に、愛用していた小目からのシマリを省略する布石法を紹介し、中国の陳祖徳らはこれを研究して、以後多用し好成績を挙げた。 1976年、安永一とアマ四強には、「アマチュア初の七段位」が日本棋院から贈られた。 1980年の世界アマチュア囲碁選手権戦に日本代表として出場し、3位に入賞。 1980年大倉賞受賞。 1994年に92歳で死去。独特の囲碁理論を持ち、安永定石と言われるものもいくつか残した。現在、西村修らによる「安永一先生を偲ぶ会」が作られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安永一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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