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安田伸 : ウィキペディア日本語版
安田伸[やすだ しん]

安田 伸(やすだ しん、1932年9月19日 - 1996年11月5日)は、日本のサックス奏者、コメディアン俳優作曲家。本名、安田 秀峰(やすだ ひでみね)。愛称はヤッさん。
== 経歴・人物 ==
現在の東京都中野区江原町生まれ〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕〔中野区東京市の区として成立したのは安田の誕生の12日後(1932年10月1日)である。〕〔山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.132には「出生地は東京都大田区」とある。〕。父親は佐賀県出身で右翼活動をしていたが、やがて毛皮と皮革の商売を始めた〔山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.131〕。生後まもなく川崎市に移り、高津小学校6年生のとき疎開〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。母の実家がある川崎市柿生を経て厚木市に移り、旧制厚木中学校1年生のとき敗戦を迎える〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。軍人志望で陸軍幼年学校に願書を出していたが敗戦によって音楽の道に志望を変更、コルネットを独学で学ぶ〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。学制改革を経て新制厚木高等学校在学中、吹奏楽部を創部しアルトサックスを担当、部長を務める。高校1年生のときは東大一橋大学を志望していたが、高校3年のとき楽器に熱中し、1951年東京藝術大学管楽器科に進む〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。しかしクラシック音楽の世界の封建性になじめず、また高額の月謝を払い続けることに対する経済的困難もあり、進駐軍クラブでジャズマンとしてアルバイトを始める〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。
やがて東京藝術大学に別科器学科が創設されるとそちらに移り〔山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.137〕、1953年に修了。以後は横浜横須賀上野などを拠点にジャズマンとして活動〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。横浜時代に石橋エータロー谷啓と知り合う〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。1953年暮から半年ほど、石田正弘(サックス)、谷崎幸雄(ベース)、日野哲夫(ドラム)と共にバンド『フォー・デバーズ』を組んで東京や名古屋で演奏〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。このとき石橋のバンドと共演した〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。
その後、石橋がリーダーをつとめる『ザ・ファイブ』での活動を経て、『ハッピー・フーリナンス』の一員として名古屋のクラブ「フェルナンド」に出演〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。このクラブにはザ・ピーナッツが出演していた〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。この頃から『スイングジャーナル』誌にしばしば名前が登場するようになる〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。
1957年秋、石橋エータローの紹介でハナ肇とクレージーキャッツに参加〔『THE OFFICIAL CRAZY CATS GRAFFITI』(エディシオン・トレヴィル、2007年)p.319〕。ドラッグに溺れて脱退した石田正弘の後任として〔山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.138〕テナーサックス(ときおりクラリネット)を担当した。真面目な性格で、メンバーの中で唯一『おとなの漫画』全1835回に出演した。また、『シャボン玉ホリデー』ではなべおさみと組んだコント、「キントト映画の助監督」役で知られ、監督役のなべに「ヤスダー!」と怒鳴られ続け、メガホンで頭を殴られ続けながらも理不尽な命令に黙々と従い、最後には立場が逆転する役柄を演じている。また、ブリッジをしながらサックスを吹き鳴らす演奏法も有名で、舞台や一部のクレージー映画などで披露している。真面目な性格ゆえに自らのタレント性のなさに悩み、関係者の一人から(青島幸男は「俺かもしれないな」と述べている)〔山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.194〕「安田伸はクレージーのお荷物だ」と陰口を叩かれて一度は本気で脱退を考えたが、友人から「お前は六大学野球における東大のような存在。負けてばかりのお荷物だが、いつか何かやるんじゃないかという期待があるから六大学の面白さがあるんだ」と言われて思いとどまったという〔山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.132〕。
俳優としても活動し、多くの映画テレビに出演した。しかしクレージーには音楽専門家のような形で参加していたため、元々俳優として活動していくつもりは無かったらしいが、舞台『屋根の上のバイオリン弾き』に出演した際に演劇の「面白さ」に気づき、本格的な勉強を始めたという〔『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』(朝日新聞社、1986年)〕。
作曲家としても活躍しており、『週刊クレージー』のテーマ曲を始めドラマの主題歌、劇伴や企業の社歌、団体歌、体操の伴奏曲など数多くの曲を作曲した〔『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』(朝日新聞社、1986年)〕。
後年は森岡賢一郎南廣らとバンド『シーラカンス』を結成し、『もしもタヌキが世界にいたら』などの曲を発表した。また、谷啓のバンド『スーパーマーケット』とも共演していた。
私生活では1966年に美容研究家の竹腰美代子と結婚。愛妻家で知られ、そこから「ミヨコー」というギャグが生まれたほどだった。しかし子宝には恵まれず、晩年は安田自身が肝臓癌と闘病を余儀なくされるなど試練にも見舞われたが、最期まで仲睦まじく添い遂げた。
1996年、急性心筋梗塞のため、死去。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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