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安田 能元(やすだ よしもと)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家臣。上杉二十五将の1人。 鎌倉幕府初代政所別当大江広元の末裔で、大江姓毛利氏の庶流であるため、文書によっては毛利での記述も見られる。そのため、同じ上杉家臣の安田長秀をはじめとする大見安田氏とは別氏族にあたるため、毛利安田氏(安田長秀#大見安田氏を参照)と呼ぶこともある。 == 生涯 == === 御館の乱 === 弘治3年(1557年)、安田景元の子として越後国安田城で生まれる。幼少の頃から小姓として上杉謙信に仕え、弥九郎の名を与えられる。 天正6年(1578年)、謙信の死後に起こった御館の乱では、兄の安田顕元と共に上杉景勝に味方する。しかし顕元は、戦後の論功行賞において景勝の直臣・上田衆が恩賞を独占したことにより、猛反発する新発田重家や堀江宗親(上杉景虎側だったが顕元が味方に引き入れた)らを仲裁するも、失敗し責任を感じて自害したため、能元が家督を相続する。天正8年(1580年)9月25日、本領を安堵され、さらに堀江宗親の旧領も与えられている。 天正10年(1582年)から数年に渡って起こった新発田重家の乱に参加。その中の放生橋の戦いにおいて殿軍を務めた際に片足を負傷。終生治ることのない後遺症が残ったため、以後「跛上総」と渾名された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安田能元」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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