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安積 艮斎(あさか ごんさい、寛政3年3月2日(1791年4月4日) - 万延元年11月21日(1861年1月1日))は、幕末の朱子学者。江戸で私塾を開き、岩崎弥太郎、小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎らが学んだ他や吉田松陰にも影響を与えたとされる。 == 生涯 == 寛政3年(1791年)3月2日、陸奥(後の岩代)二本松藩の郡山(福島県郡山市)にある安積国造神社の第55代宮司の安藤親重の三男として生まれる。名は重信、字は子順(しじゅん)、通称は祐助、別号は見山楼。 17歳で江戸に出て佐藤一斎、林述斎らに学ぶ。 文化11年(1814年)、江戸の神田駿河台に私塾「見山楼」を開く。見山楼は旗本小栗家の屋敷内にあり、小栗忠順もここに学んだ。 天保14年(1843年)に二本松藩校敬学館の教授、嘉永3年(1850年)には昌平黌教授となり、ペリー来航時のアメリカ国書翻訳や、プチャーチンが持参したロシア国書の返書起草などに携わる。また、幕府へ外交意見として『盪蛮彙議』を提出した。 万延元年(1860年)11月21日没。没する7日前まで講義を行っていたと伝えられる。墓は東京都葛飾区の妙源寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安積艮斎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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