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安芸福原氏(あきふくばらし、あきふくばらうじ)は、日本の氏族の一つ。 安芸国の国人領主であった毛利元春の五男広世が、縁戚の備後長井氏へ養子に入り、後に内部荘福原を所領としたことか ら福原を名字とした。なお、福原は「ふくはら」ではなく「ふくばら」と読む〔毛利家文書(47号)で、仮名字体で「ふくばら」と記載された書状もあり、山口県広報広聴課のHPでもふくばらと記載されている。また、安芸福原氏発祥の地である安芸高田市吉田町福原も当然ふくばらと読む。〕。また他の福原氏との区別のため、毛利福原氏・安芸福原氏と称される。 == 長井氏から福原氏へ == 毛利元春の五男、毛利広世が備後国の守護長井氏に養子に入ったことが、福原氏の始まりとなる。長井氏は鎌倉幕府政所初代別当大江広元の次男長井時広を初代とする大江氏の惣領家であった。長井時広は承久2年(1221年)の承久の乱の後、備後国に守護職を得て、次男長井泰重が六波羅評定衆となり、京都へと出仕した。泰重は備後のほか、備前・周防の守護職も得て、以降西国の所領はこの系統によって管理されるようになった(備後長井氏)。 長井氏嫡流家(出羽長井氏)当主が長井泰秀であった宝治元年(1247年)に宝治合戦が起き、毛利氏当主の毛利季光は三浦泰村に味方して討死した。泰秀は北条氏に味方しており、越後にいた毛利季光の遺児、毛利経光を助け安芸国の所領の存続に尽力した。 建武の新政に係る混乱で備後守護職を失うものの、長井貞頼は足利尊氏に従って活動し、備後国の所領以外に播磨国浦上荘、越後国社荘、出雲国来次荘の地頭職を得た。しかし南朝:正平6年/北朝:観応2年(1351年)から始まる観応の擾乱の後、貞治2年(1363年)に討死した。子の貞広は今川了俊に従って九州を転戦し、永和元年(1375年)に筑後国で討死した。貞広は養子として毛利元春の子広世を迎えており、これが安芸福原氏の祖となるのである。 長井広世は父の元春より安芸国内で福原村等を譲られ、後に広世は福原村に鈴尾城を築いて居城とし、長井から福原へと名字を変えた。養父長井貞広の縁もあり、足利将軍家等からも所領を安堵され、毛利氏宗家から独立した領主となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安芸福原氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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