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安芸門徒(あきもんと)は、鎌倉時代末期から南北朝期に成立し、現在まで続く安芸国(広島県西部地域)の浄土真宗門徒の総称である。 == 歴史 == === 浄土宗の備後国流入と浄土真宗の進出 === 建永2年(1207年)に法然が法難に遭って流罪となった際、その弟子の浄聞が備後国に配流されたことが始まりとされる。鎌倉時代末期に浄土真宗の一派であった明光が沼隈半島に進出し、元応2年(1320年)現在の沼隈町山南に光照寺を築き、そこを西国の布教の拠点とした。 南朝:延元2年/北朝:建武4年(1337年)に、親鸞の娘覚信尼の子、覚慧の子である本願寺三世覚如の長子存覚が備後国に下向した。早速、南朝 : 延元3年/北朝 : 建武5年(1338年)には、備後国守護の前で法華宗徒との争論を行い、勝利したとされる。後に「備前法華に安芸門徒」と言われたように、当時の備前地方には日蓮の孫弟子、日像の流派が入り込んでおり、備後国にもその影響が及んでいた。その日蓮宗の勢力に対抗するためにも、争論で勝利をすることは不可欠であった。 多くの対立や抵抗を排除しながら、備後地方に布教を進め、室町時代初期から中期にかけて勢力を拡大し、大きな勢力となっていった。 その後、勢力結集の必要もあり、存覚の聖道門流から本願寺系への教義変更に至る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安芸門徒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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