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安茂里(あもり)は、長野県長野市の市街地西郊外に広がる地域。 # 【最狭義】大字安茂里の範囲。 # 【狭義】1.に宮沖・伊勢宮一〜三丁目・安茂里小市一〜四丁目・差出南一〜三丁目を加えた範囲。1882年(明治15年)末時点の上水内郡安茂里村域に相当。 # 【広義】2.に大字平柴・大字小柴見・平柴台を加えた範囲。1889年(明治22年)4月時点の上水内郡安茂里村域に相当。長野市役所安茂里支所管内の範囲。''本項で解説'' 地域内(長野市役所安茂里支所管内)の人口は、9,063世帯 22,048人(平成26年4月1日現在)〔長野市町別人口及び世帯数 - 長野市企画政策部企画課〕。 本項では、かつて概ね同区域に所在した上水内郡安茂里村(あもりむら)についても述べる。 == 概要 == 地域東端を裾花川、南端を犀川が流れ、北には富士ノ塔山(981m)・旭山(785m)がそびえる。地域南部に信越本線・北陸新幹線と国道19号が通過する。周囲は以下の地域と接する。 面積は広大だが、北寄りの大半の部分は山林であり、住宅などは南部の国道19号沿道〜犀川・裾花川の間に密集している。 裾花川を隔てて長野市街地の西側に接しており、ベッドタウンとして戦後人口が急増。平柴台・杏花台・宮沖・園沖・伊勢宮・犀北などの団地が造成され、1985年(昭和60年)には信越本線に安茂里駅が新設された。 松代藩の奨励で栽培が始まった杏の栽培が古くから盛んである。現在では千曲市のあんずの里(森・倉科地区)が杏の名所として有名であるが、以前は当地が森・倉科をしのぐ名所として名が通っており、善光寺の参拝客が花見に大勢立ち寄った。しかし戦後ベッドタウンとして住宅地化していくに伴って杏の木は減り、「あんずの名所」は森・倉科へ移っていった。ただ現在でも杏の生産は続いており、大字安茂里には杏にちなんで「杏花台」と名付けられた住宅地がある。 工業は、地域東部では裾花川沿いの差出地区に味噌メーカー最大手のマルコメ本社・工場や農協系の長野興農本社・工場など大規模な食品工場が立地するほか、印刷所も多い。地域西部では安茂里小市地区などに陸運業の事業所や機械製造工場などが立地する。 地名の由来は、1876年(明治9年)に前身4ヶ村が合併し安茂里村が発足する際に、古語「天降る(あもる)」にちなんで「安らけく茂る里」の意で字を当てて命名された瑞祥地名〔『角川日本地名大辞典 20 長野県』角川書店、1990年 (ISBN 4040012003)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安茂里」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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