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安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和11年(1936年)12月26日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者、俳人、郷土史研究家。通名および俳号は「和風」をそのまま音読みして「わふう」。 == 経歴・人物 == 秋田藩士安藤和亭(通名は和市)の長男として生まれる〔『秋田人名大事典』p.32〕。幼名は國之助〔『秋田の先覚 3』p.2〕。明治17年(1884年)和風と改める〔コトバンク 安藤和風とは 〕。 5歳で師について四書五経の素読を習う〔。明治12年(1879年)太平学校中学師範予備科に入学するが〔、授業料なし、教科書は貸与という制度にもかかわらず、秩禄処分により俸禄を絶たれた士族で貧窮のため退学せざるを得なかった〔『秋高百年史』p.60〕。退学後は、昼は筆耕で生計をたて、夜は私塾・講習学舎で学んだ〔。 明治15年(1882年)、当時全国に広がっていた自由民権運動の影響を受け、秋田青年会を結成、熱血政治青年として時事を論じた〔『秋田の先覚 3』p.3〕。同年7月、奉天社による保守派新聞の秋田日日新聞に入社するが、11月には既に自由民権を主張する秋田改進党系の秋田日報に移っている〔〔『秋田大百科事典』p.39〕。翌年秋田日報の署名「仮編集人」となるが〔『秋田の先覚 3』pp.3-4〕、産業・教育に干渉する農商務省・文部省両省の廃止論や新聞紙条例・集会条例への非難、県令石田英吉と県会による田地買収の非難といった寄稿を掲載したことで、成法誹譏、官吏侮辱の罪で明治16年(1883年)3月から7月まで投獄される〔〔『秋田の先覚 3』p.4〕〔『秋田の先覚 2』p.66〕〔皮肉なことに、このとき農商務省廃止論を寄稿したのは、のちに自身が農林大臣・商工大臣を務めることになる若き日の町田忠治であった(『秋田の先覚 2』p.66)。〕。 出獄時には秋田改進党は分裂、秋田日報も解散しており、秋田県会書記などの職に就いていたが、明治21年(1888年)和風の才能を認めていた篤志家の助けで上京し、私立東京商業学校の第1期生として入学する〔。卒業後帰郷すると御法川直三郎商店、秋田県庁、秋田市役所、四十八銀行などを経て〔、明治33年(1900年)9月秋田日報の後身である秋田魁新報に復帰、翌年には35歳で同紙主筆となる〔『秋田の先覚 3』pp.5-6〕。 主筆としての和風は、秋田魁新報の社是「文章報國、蹈正勿懼」を実践し、該博な知識と正確な先見性で政治、経済、社会、文化全般にわたって硬軟自在の記事を毎日大量に書き上げ、人気を博した〔『秋田の先覚 3』pp.6-9〕〔『秋田大百科事典』p.71〕。一方で経営面にも手腕を発揮し、大正12年(1923年)、社を匿名組合から株式会社に改め、編集・営業の近代化を図るとともに、従前の政党機関紙色を脱し読者本意の紙面を目指した〔『秋田の先覚 3』pp.9-10〕。昭和3年(1928年)社長に就任すると、社勢の興隆にともない新社屋の建設にとりかかった〔『秋田の先覚 3』p.10〕。昭和6年(1931年)の新社屋完成時には、折よく来県していた若槻禮次郎首相や地元出身の町田忠治農相、田中隆三文相などを招いて屋上で社旗掲揚式を執り行った〔。 また、和風は東京商業学校の学生時代から俳諧の研究に勤しんでおり、秋田魁新報復帰後は数々の俳諧研究書を出版するかたわら、作句も盛んに行い句集も出している〔『秋田の先覚 3』pp.12-13〕。蕉風を慕いながらも秋田正風派と呼ばれた独自の句風で〔『秋田の先覚 3』p.13〕〔『秋田大百科事典』pp.78-79〕、同時代の秋田の俳人である日本派の石井露月とともに後進の指導も行った〔。更には郷土史家としての秀でた側面も見せている。『秋田の土と人』『秋田人名辞書』『秋田勤王史談』『秋田五十年史』といった秋田郷土史の古典となる書を著しており、特に前二者は和風の没後40年以上を経て復刻版も出版されている〔『秋田の先覚 3』p.14〕〔。 昭和11年(1936年)70歳で死去〔『秋田の先覚 3』p.16〕。和風の訃報に接すると、その人物と才を高く評価していた徳富蘇峰は和風を哀惜し、「新聞界の一大損失である」として弔辞を寄せた〔『秋田の先覚 3』p.8〕。ちょうど没後30年の昭和41年(1966年)、新聞人功労者として千鳥ヶ淵公園の「自由の群像」記念碑にその名を刻印された〔【電通】マスコミ功労者顕彰 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安藤和風」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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