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歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代末期の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない〔歌川広重 人物像 〕。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。 == 略歴 == 歌川豊広の門人。 広重は、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。幼名を徳太郎、のち鉄蔵、重右衛門また徳兵衛とも称した。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が同心職を継ぐ。同年12月には父も死去。幼い頃からの絵心が勝り文化8年(1811年)15歳の頃、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1776年-1828年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられた。 11年後の文政6年(1823年)には、祖父方の嫡子仲次郎に家督を譲って、鉄蔵と改名し後見となった。家業の火消同心を辞め、絵師に専心した。 広重は始め役者絵から出発。やがて美人画に手をそめたが、天保元年(1830年)一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。 文政12年(1830年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保3年 (1832年)、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また一遊斎、立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、この頃大岡雲峰に就いて南画を修めている〔歌川広重伝」『浮世絵師歌川列伝』「〕。 天保3年(1832年)、36歳の時に正式に職を仲次郎に譲ってから浮世絵師として独立した。この年、公用で東海道を上り、翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、この間、花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに狂歌本の挿絵も多く残している。 安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。 ''東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん'' 「西方浄土の名所を見てまわりたい」と詠っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「歌川広重」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hiroshige 」があります。 スポンサード リンク
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