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安藤 直次(あんどう なおつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。安藤基能の長男で、紀伊田辺藩(紀州藩附家老)〔明治維新までは大名とはみなされなかった。〕初代藩主。慶長5年(1600年)から元和2年(1616年)までは幕府老中を務めた〔北島正元「安藤直次」『国史大辞典』吉川弘文館〕。 == 生涯 == 幼少期から徳川家康に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いを皮切りに長篠の戦いにも参戦した。 天正12年(1584年)からの小牧・長久手の戦いでは敵将・池田恒興や森長可を討ち取る活躍をし、家康から弓を拝領した〔。 天正18年(1590年)に家康が関東に移されたとき、1,000石の所領を与えられた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の使番として従軍し、慶長8年(1603年)の家康将軍宣下にも参加して、慶長10年(1605年)正月には武蔵国において2,300石の所領を与えられた〔。そして、本多正純や成瀬正成と共に家康の側近として初期幕政を取り仕切った〔。 慶長15年(1610年)、家康の命により徳川頼宣(長福丸)付の家老に任じられた〔。その後も大御所 (江戸時代)家康の側近として駿河政権に参画し、遠江横須賀藩主・大須賀忠次の後見人にもなった。 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、附家老として年少の頼宣に代わって軍を率いて参戦するほか、駿河年寄として成瀬正成と共に軍議に参加し、自藩のみならず諸大名を統制する役割を担った〔白根孝胤「徳川一門付家老の成立過程と駿府政権」1999年3月(『徳川林政史研究所研究紀要33』)〕。このとき、夏の陣で長男の安藤重能が戦死している〔。 元和3年(1617年)、遠江掛川城主となった〔。 元和5年(1619年)7月19日、頼宣が紀伊和歌山城に移ると、紀州藩附家老として移り、同国田辺城に3万8,000石の所領を与えられた〔。頼宣からは厚く信任を受け〔、後に頼宣は「自分が大名としていることができるのは、直次がいてくれたからだ」とまで述べている。 寛永12年(1635年)5月13日、死去。墓所は三河国妙源寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安藤直次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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