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安西水丸 : ウィキペディア日本語版
安西水丸[あんざい みずまる]

安西 水丸(あんざい みずまる、本名:渡辺 昇(わたなべ のぼる)、1942年7月22日 - 2014年3月19日)は、日本のイラストレーター漫画家エッセイスト作家絵本作家
== 来歴 ==
東京都港区赤坂生まれ。血液型AB型。7人兄弟の末っ子で姉が5人いた。一番下の姉とは7つ離れている。生家は祖父の代から建築設計事務所を営んでいた〔村上春樹、安西水丸『夢のサーフシティー』朝日新聞社、1998年7月。「安西水丸の宝箱」ホームページ展より。〕。
1945年、重い喘息を患い、母の郷里である千葉県千倉町(現・南房総市千倉町)へと移住〔。幼少期を千倉で暮らす。その頃の体験や思い出は、初期の漫画作品、エッセイ、小説など多くの作品に登場している。「千倉」は安西水丸にとっての、重要なキーワードとなっている。千倉はすべての心象のルーツであるように描かれている。1949年、千倉町立七浦小学校に入学〔。
1961年日本大学豊山高等学校卒業。日本大学藝術学部美術学科造形コースに入学。1965年、同大学を卒業。電通アートディレクターとして就職。1969年、同社を退社して渡米。現地でADアソシエイツ(N.Y.のデザインスタジオ)に就職〔『イラストレーション緊急増刊 安西水丸 青空の下』玄光社、2014年8月、110-111頁。〕。
1971年、帰国。平凡社のADとなり、そこで当時雑誌『太陽』の編集をしていた嵐山光三郎に誘われたのをきっかけに、デザイナーからイラストレーターへと転向。ペンネームの「安西」は、嵐山から「あ」がつく名前がいいと言われ、祖母の苗字「安西」から取った。また「水丸」は、子どもの頃から「水」という漢字が好きだったことから。
また、嵐山の紹介で、『ガロ』等で多数の漫画も発表していた。
1979年、「パレットクラブ」発足。メンバーは、ペーター佐藤原田治、当時「ポパイ」のアートディレクターの新谷雅弘の4人。パレットクラブから派生した東京築地にあるイラストの学校「パレットクラブ・スクール」に於いては、講師にも就いている。※講師としては、東京築地のパレットスクールより京都のインターナショナル・アカデミーのイラスト教室が先である。メンバーはパレットクラブの4人で、ペーター佐藤は講師に就いていた当時に逝去。
1981年、安西水丸事務所を設立し、本格的にフリーのイラストレーターとなる。その後イラストレーターと平行して日藝の講師を1991年から2003年まで務める。
1987年3月、エッセイ集『青インクの東京地図』を刊行。以降、エッセイや小説も発表する。小説の代表作に『メランコリー・ララバイ』、『バードの妹』、『アマリリス』など。
2005年東京イラストレーターズ・ソサエティの理事長に就任。
2013年1月、個展「1984 〜 2013 vol.1 : MIZUMARU ANZAI ORIGINAL WORKS」と「1987 〜 2013 vol.2 : MIZUMARU ANZAI SILK SCREENS」をスペースユイにて開催。
2014年3月17日に神奈川県鎌倉市にて執筆中に倒れ、病院に搬送されて治療を受けていたが、3月19日の21時7分、脳出血のために死去した。。
同年8月19日、玄光社よりムック『イラストレーション緊急増刊 安西水丸 青空の下』が刊行される。
同年10月17日から11月20日まで、「安西水丸展」が銀座のクリエイションギャラリーG8で開かれる〔安西水丸展 リクルートの2つのギャラリー 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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