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安貴王[あきおう] 安貴王(あきおう、生年不詳(一説では持統8年〔694年〕)〔大森18 〕 - 没年不詳)は、奈良時代の皇族。名は阿貴王、阿紀王とも記される。二品・志貴皇子の孫で、正四位下・春日王の子〔『本朝皇胤紹運録』『公卿補任』〕。あるいは浄大参・川島皇子の孫で、浄大肆・春日王の子〔塩谷香織「志貴皇子系譜の疑問-市原王は志貴皇子の曾孫ではない-」『学習院大学国語国文会誌』1980年3月所収。『新撰姓氏録』では安貴王の子孫の春原氏を川島皇子の後裔とする。〕。位階は従五位上。 == 経歴 == 養老2年(718年)2月から3月にかけての元正天皇の美濃国行幸に同行し、伊勢国を通った際に「伊勢国に幸しし時安貴王作歌」を詠む〔『万葉集』巻3-0306〕。この和歌により交際中の女性がいたことが明らかであるが、この女性は紀小鹿と比定される〔〔因幡八上采女とする見解もある(緒方惟章「天智系の皇子たち」『萬葉集講座』第5巻、有精堂、1973年2月)〕。 間もなく、紀小鹿との間に子息(市原王)を設けるが〔、安貴王は元正天皇の采女であった因幡八上采女と通じてしまう〔『万葉集』巻4-0534,0535〕。結局、養老年間末(721年-724年頃)〔に臣下と天皇に貢進された采女との密通により二人は不敬罪に問われ〔、因幡八上采女は本郷であった因幡国へ戻された〔鈴木20 〕。安貴王に対する処罰内容は明らかではないが、官位剥奪・自宅謹慎程度と想定されている〔大森19 〕。 その後罪から赦されたらしく、神亀6年(729年)無位から従五位下に叙爵される〔『続日本紀』神亀6年3月4日条〕。天平5年(733年)に宴席で子息の市原王から長寿を祝う和歌を贈られているが、これを40歳の賀に伴うものとして、安貴王の生年を持統8年(694年)と想定する説もある〔。天平17年(745年)正月に従五位上に叙せられる〔『続日本紀』天平17年正月7日条〕。 万葉歌人として『万葉集』に和歌作品が4首入集している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安貴王」の詳細全文を読む
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