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安部 恭弘(あべ やすひろ、1956年1月13日 - )は、日本の歌手、作曲家、音楽プロデューサー。 == 経歴 == 東京都文京区出身。早稲田大学理工学部建築学科卒業。 建築設計士の家庭に生まれる。自身もかなり真剣に建築設計士の道を目指しており、大学も建築設計科を選択していた。また、大学時代には家庭教師をしており、その教え子の一人が野々村真だった。 一方、高校時代に音楽に目覚め、大学時代より本格的にアマチュア音楽活動を始める。大瀧詠一は大学の先輩である。 早稲田大内の軽音楽サークルには傾向の合うものがなかったため参加せず、銀座のライブスポットで演奏をしていた他大学のサークルやアマチュアバンドに接触。その中で慶應義塾大学のサークルで活動していた杉真理、竹内まりやらと出会う。 音楽のジャンルではボサノヴァが好きで、初期にはボサノヴァのリズムをベースにした曲ばかり作曲していたため、「ボサアベ」というあだ名をつけられた。後年の稲垣潤一への代表的提供曲『ロング・バージョン』のリズムもやはりボサノヴァである。 大学在学中に、杉真理のバンド「リアルマッコイズ」の活動に参加。リアルマッコイズはやがて「杉真理&レッドストライプス」としてメジャーデビューを果たし、2枚のアルバムを発表するが、ヒットに恵まれず、杉の急病に伴い事実上の解散(後に杉のライブにて限定復活をしている)。 その後、ソロで出場した1977年のヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)第14回大会ではつま恋本選会まで進んだが、受賞は逃した(出場曲は、後に佐々木幸男・EPOに提供する「セプテンバー・バレンタイン」)。 大学卒業後、大手ゼネコンに就職するが、音楽が忘れられず意を決して退職。しばらくの間はディレクターやスタジオミュージシャンとして、スタジオレコーディングを手掛けたり、他アーティストのライブにコーラスとして参加しつつ、クリスタルキング、大橋純子、竹内まりや、稲垣潤一等への作曲提供をしていた。 ポプコンやレッドストライプスでの挫折から、当初は作曲家・スタジオミュージシャンとしての活動に専念し、ソロアーティストとしての活動には消極的だったが、1981年の寺尾聰の「ルビーの指環」の大ヒットに触発されてデビューを決意した。 ステージ・パフォーマーとしてはギター、キーボードなどのプレイを披露。特に小田和正のソロ初期のステージにおけるギタリストぶりは印象深い。これはかねてより小田と親交があっただけでなく、「リードが弾けてコーラスがとれるギタリスト(ついでに、キーボードもできれば尚可)」という小田サイドの意向が大きかったと言われている。 現在は、ライブを中心とした活動を行っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安部恭弘」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yasuhiro Abe 」があります。 スポンサード リンク
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