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宋 哲元(そう てつげん)は中華民国の軍人。最初は北京政府、国民軍、後に国民革命軍(国民政府)の軍人となる。最終階級は陸軍上将。馮玉祥配下の「五虎将」(他は張之江・鹿鍾麟・鄭金声・劉郁芬)の1人と目された。字は明軒。 == 事跡 == === 国民軍での功績 === 1908年(光緒34年)、武衛右軍随営武備学堂に入学する。卒業後は馮玉祥率いる第2営で哨長に任命された。1913年(民国2年)、連長となる。以後、馮率いる第16混成旅に所属して中国各地を転任・転戦し、第2団少校団附に昇進した。 1917年(民国6年)、張勲復辟では、張勲の弁子軍を破る上で功績をあげた。1921年(民国10年)には元陝西督軍陳樹藩を、翌民国11年(1922年)には河南督軍趙倜を破る上で、やはり軍功をあげた。これにより、宋哲元は第25混成旅旅長にまで昇進している。1924年」(民国13年)10月の北京政変(首都革命)を経て、馮玉祥が自軍を国民軍に改組する。この際に、宋は国民軍第11師師長に任命された。翌年には熱河都統に就任している。 1926年(民国15年)1月、馮玉祥が下野に追い込まれる(3月にソ連訪問)。そのため、張之江・鹿鍾麟ら国民軍の将軍たちは、指導者を欠いたまま、北方各派の包囲を相手に戦わなければならなくなった。この時、宋哲元も西路総司令などをつとめ、張や鹿を補佐し、前線で戦った。4月、国民軍は北京を放棄して南口に拠り、さらに北方各派を相手に懸命に抗戦した。8月、ついに南口を放棄して綏遠方面へ撤退する。ただ、張・鹿・宋らの善戦奮闘のおかげで国民軍は壊滅することなくその形を保持できた。また、中国国民党の北伐にも有効な援護射撃となったともいえる。 同年9月、馮玉祥は自軍に復帰する。五原誓師を行って、国民軍は国民聯軍に改組され、あわせて全軍が国民党に加入した。翌年、馮の軍はさらに国民革命軍第2集団軍となる。6月に宋哲元はその中の第4方面軍総指揮をつとめた。11月には、陝西省政府主席に就任した。宋は陝西省内の独立軍・匪賊をことごとく掃討し、秩序の安定をもたらしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宋哲元」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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