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宋秉ジュン[そう へいしゅん]
宋 秉畯(そう へいしゅん)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家である。日本名は野田 秉畯(のだ へいしゅん、併合前は野田 平次郎 (のだ へいじろう)〔光復会、 親日反民族行為者名簿 (2002年2月28日)〕と名乗っていた)。宋時烈の9世孫にあたる。現在の韓国では丁未七賊及び親日派の一人とされている。 ==生涯== 宋文洙の子として咸鏡道長津郡(現在の咸鏡南道)に生まれる。父が妓生に生ませた庶子だったために家を継ぐことはできず、漢城に渡った後、閔台鎬に目を掛けられてその妾の家で働くようになった。同治10年(1871年)に武科(科挙の一つ)に合格し、同治12年(1873年)からは司憲府の監察等を務めた〔反民族問題研究所『親日派99人』(トルベゲ、1993年) 63頁(カン・チャンイル執筆部分)〕。光緒10年(1884年)の甲申政変の後、密命を受けて金玉均を暗殺するために日本に渡ったものの、説得されてその同志になった。 帰国後は金玉均に寝返った容疑で投獄されたが、閔台鎬の息子である閔泳煥の取りなしで出獄した。出獄後は興海郡守等を務めていたが、逮捕状が下され、再び日本に身を避けた。光武8年(1904年)に日露戦争が起こると、日本軍の通訳として帰国した後から親日に転向し、一進会を組織した。 光武11年(1907年)のハーグ密使事件の際には、皇帝高宗の譲位運動を展開、これが結果的に高宗を退位に追い込む要因の一つとなった。同年李完用内閣が成立すると、農商工部大臣・内相を務めながら、李容九等一進会員との連名で「韓日合邦を要求する声明書」を純宗・曾禰荒助韓国統監・李完用首相の3名に提出した。併合後は日本政府から朝鮮貴族に列され子爵が叙爵された。朝鮮総督府中枢院顧問になり、後に伯爵陞爵した〔キム・サムン『親日政治100年史』(ドンプン、1995年) 58、80頁〕。没後に正三位勲一等が追贈された。伯爵位を襲爵した長男の宋鍾憲(野田鍾憲)は、後に貴族院朝鮮勅選議員に勅任されている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宋秉ジュン」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Song Byung-jun 」があります。
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