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阿魯[あろ]
阿魯(あろ、女真音:アル、? - 1150年)は、金の皇族で、第2代皇帝の太宗の子。姓は完顔で、漢名は宗本。 == 略歴 == 皇統9年(1149年)に右丞相兼中書令となり、兄の政敵であった斡本(宗幹)の次男である平章政事(宰相格)の迪古乃(海陵王)が従兄の熙宗を殺害して自ら即位すると、太保・太傅までに昇進し、また三省の総理を兼ねたという。 しかし、海陵王は太宗の諸子たちに深い恨みを抱いており、煕宗時に権勢を振るっていたことから阿魯には特に強い憎悪を抱いていた。このため、腹心である秘書監の蕭裕と、太宗の諸子粛清のための謀略を練った。まず、宗本と親しかった尚書省令史の蕭玉に宗本と同族の左丞相の蕭王・乙卒(秉徳、粘没喝の孫)らを誣告させ、これを投獄した。さらに烏帯の乙卒への誣告が追い討ちとなった。 天徳2年(1150年)、海陵王は阿魯の謀反を大義名分として、阿魯を初め、乙卒らをまとめて共に処刑し、市場で晒し首にしたという。同時に尚書左丞相の唐括弁や判大宗正府事の宗美、東京留守の宗懿、北京留守の卞など太宗の子孫70人、宗翰の子孫30人、諸宗室50人がまとめて殺された。烏帯はその報酬として乙卒の娘を与えられたという。ところが、烏帯の妻の唐括定哥が、海陵王と秘かに密通していた。そのため、烏帯は職務怠慢の理由で崇義軍節度使に降格され、左遷された。やがて烏帯は妻の裏切りに遭って、天徳4年(1152年)に勅命で殺害された。 こうして、太宗の子孫70余人が海陵王によってまとめて殺害されてしまい、太宗の血筋は途絶えたという。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿魯」の詳細全文を読む
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