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完顔秉徳 : ウィキペディア日本語版
完顔秉徳[かんがん へいとく]
完顔 秉徳(かんがん へいとく、? - 1150年)は、宗室。実力者だった有力皇族の秦王・粘没喝(宗翰)の孫で、父は設野馬(漢名は真珠)。女真名は乙卒
熙宗の治世下で西南路招討使となる。後に汴京留守兵部尚書に昇進した。皇統6年(1146年)に参知政事に昇り、のち平章政事に昇った。やがて迪古乃(後の廃帝海陵王)、太宗の孫である烏帯(宗言)と熙宗の婿である唐括弁らと共に熙宗の廃立を謀り、熙宗を寝殿で惨殺させた。秉徳の本心は自身の即位であったが、僕散思恭の脅迫で海陵王の擁立に回った。海陵王が即位すると、この功績で左丞相・侍中・左副元帥に大累進し、蕭王に封ぜられた。
だが、海陵王は権力欲の強い秉徳に辟易したので、天徳2年(1150年)に秉徳は行台尚書省事として左遷された。やがて秉徳は烏帯と敵対し、縁戚関係であった尚書省令史の蕭玉と烏帯の伯父である阿魯(宗本)と共に謀反の罪で誣告され、海陵王の命で逮捕され投獄された。天徳2年4月、蕭玉・阿魯と共に燕京の処刑台で処刑され、晒し首になった。
誣告した烏帯は、秉徳の財産と娘を自分のものにしたという。
== 家族 ==

=== 子 ===
不詳



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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