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宍戸 親基(ししど ちかもと)は、長州藩毛利家一門筆頭宍戸氏当主。周防国三丘11代領主。 == 生涯 == 安政2年(1855年)、父の隠居にともない、家督を継ぐ。長州藩第13代藩主毛利慶親(のち敬親)より偏諱を賜って初名の徳基(のりもと)から親基に改名し、家老としてこれを補佐、元治元年(1864年)の四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)では講和使節として派遣された。 慶応2年(1866年)の第2次長州征討戦争では芸州口の指揮官となり、近代的な長州藩兵を率いて江戸幕府軍を撃退した。明治維新の後、晩年は郷校徳修館で教育活動に従事した。 明治19年(1886年)7月14日死去。同藩第14代藩主毛利元徳(敬親養子)の偏諱を受けた長男の宍戸徳裕(のりひろ)が家督を相続した。 明治33年(1900年)徳裕の婿養子乙彦が、養祖父親基の明治維新への功績により、男爵に叙され華族となる。 大正14年(1915年)贈従四位。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宍戸親基」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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