|
宍道 隆慶(しんじ たかよし、大永7年(1527年)-没年不詳)は、戦国時代の国人領主、武将。出雲国の戦国大名尼子氏の一門衆。後に大内氏、毛利氏に仕えた。 宍道氏は、近江佐々木氏の支流に属する出雲源氏の出で、尼子氏祖となった尼子高久の弟、秀益(ひでます)を祖とする家柄であり、出雲国意宇郡宍道(現島根県松江市宍道町)に土着したことが始まりという。父は宍道経慶(つねよし、尼子経久より1字を賜う)、母は尼子国久の娘、弟に宍道九郎(実名不詳)。嫡男は宍道政慶(まさよし)。官位は大炊頭・遠江守。坂口城・姫山城城主。 初め尼子詮久(後の尼子晴久)に仕えてその偏諱(「詮」の字)を受け詮慶(あきよし)、のち大内義隆に属してからはその偏諱(「隆」の字)を受けて隆慶と名乗った。別名として宍道八郎、宍道正隆(まさたか)も伝わる。 == 生涯 == 天文9年(1540年)、主君・尼子詮久による吉田郡山城の戦いに参戦するも、戦況利あらず敗走した。 天文11年(1542年)1月11日に大内義隆は自ら出陣して出雲侵攻を開始。これに呼応した宍道氏は大内側へと寝返る。当初から三沢為清・三刀屋久扶等の出雲国人衆を大内側へと誘っていたものの、赤穴城の攻略に手こずってしまい、他国衆達が動揺し尼子方へと復帰してしまう。これにより立場が悪くなった隆慶は大内義隆と共に5月25日に山口へ敗走していった。その後は大内氏家臣として厚遇されている。 天文20年(1551年)には大内氏重臣陶隆房による謀反により大内義隆が自害(大寧寺の変)。その後、大友晴英(大内義長)を大内氏の当主に迎えた陶晴賢(隆房より改名)は、傀儡政権を樹立した。これに隆慶も従うものの、その後の1555年厳島の戦いにて晴賢が自害。同年から毛利氏当主・毛利元就の侵攻(防長経略)を受けると、宍道隆慶は毛利氏に従属した。 永禄5年(1562年)には嫡男の政慶と供に毛利氏の出雲侵攻に加わっており、かつての宍道氏の居城であった鳶ヶ巣城を奪回した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宍道隆慶」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|