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宍道隆慶 : ウィキペディア日本語版
宍道隆慶[しんじ たかよし]

宍道 隆慶(しんじ たかよし、大永7年(1527年)-没年不詳)は、戦国時代国人領主、武将出雲国戦国大名尼子氏の一門衆。後に大内氏毛利氏に仕えた。
宍道氏は、近江佐々木氏の支流に属する出雲源氏の出で、尼子氏祖となった尼子高久の弟、秀益(ひでます)を祖とする家柄であり、出雲国意宇郡宍道(現島根県松江市宍道町)に土着したことが始まりという。父は宍道経慶(つねよし、尼子経久より1字を賜う)、母は尼子国久の娘、弟に宍道九郎(実名不詳)。嫡男は宍道政慶(まさよし)。官位は大炊頭・遠江守。坂口城姫山城城主。
初め尼子詮久(後の尼子晴久)に仕えてその偏諱(「詮」の字)を受け詮慶(あきよし)、のち大内義隆に属してからはその偏諱(「隆」の字)を受けて隆慶と名乗った。別名として宍道八郎、宍道正隆(まさたか)も伝わる。
== 生涯 ==
天文9年(1540年)、主君・尼子詮久による吉田郡山城の戦いに参戦するも、戦況利あらず敗走した。
天文11年(1542年)1月11日に大内義隆は自ら出陣して出雲侵攻を開始。これに呼応した宍道氏は大内側へと寝返る。当初から三沢為清三刀屋久扶等の出雲国人衆を大内側へと誘っていたものの、赤穴城の攻略に手こずってしまい、他国衆達が動揺し尼子方へと復帰してしまう。これにより立場が悪くなった隆慶は大内義隆と共に5月25日に山口へ敗走していった。その後は大内氏家臣として厚遇されている。
天文20年(1551年)には大内氏重臣陶隆房による謀反により大内義隆が自害(大寧寺の変)。その後、大友晴英(大内義長)を大内氏の当主に迎えた陶晴賢(隆房より改名)は、傀儡政権を樹立した。これに隆慶も従うものの、その後の1555年厳島の戦いにて晴賢が自害。同年から毛利氏当主・毛利元就の侵攻(防長経略)を受けると、宍道隆慶は毛利氏に従属した。
永禄5年(1562年)には嫡男の政慶と供に毛利氏の出雲侵攻に加わっており、かつての宍道氏の居城であった鳶ヶ巣城を奪回した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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