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宗尊親王(むねたかしんのう)は、鎌倉幕府6代将軍(在任:建長4年(1252年)4月 - 文永3年(1266年)6月、皇族での初めての征夷大将軍である)。後嵯峨天皇の第一皇子。 == 生涯 == 5代将軍の藤原頼嗣が京に送還された後の建長4年(1252年)4月に11歳で鎌倉に迎えられ、異母弟の後深草天皇より征夷大将軍の宣下を受ける〔但し、当然ながら弟である後深草天皇も10歳と若年であり、実際には院政を敷く父・後嵯峨天皇が政務を担当していた。また、宗尊親王は宝治元年(1247年)正月に後深草天皇の猶子となっていたようである(安田、1990年、P.608)。〕。 征夷大将軍の辞令(宣旨)「吾妻鏡」 三品 宗尊親王 右被左大臣宣偁件親王宜爲征夷大將軍 建長四年四月一日 大外記中原朝臣師兼奉 (訓読文) 三品 宗尊親王 右、左大臣(鷹司兼平)の宣を被るに偁(い)はく、件(くだん)の親王、宜しく征夷大将軍に為すべし 建長4年4月1日 大外記中原朝臣師兼(押小路師兼)奉(うけたまは)る 親王は後嵯峨天皇の事実上の長子〔宗尊親王の兄に円助法親王がいたが、邦仁王(後の後嵯峨天皇)が不遇な境遇のために正式な元服を行われていない状況下で誕生した子であり、将来的には僧侶にせざるを得なかった。〕であり、父から寵愛されて室町院の養子とされる(室町院は後高倉院子孫の唯一の現存者で多くの所領を持ちながら、それを継承させる子孫がいなかった)〔佐伯智広「中世前期の政治構造と王家」『日本史研究』571号(2010年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5〕。その一方で母方の身分が低いために皇位継承の望みは絶望的であり、後嵯峨天皇は親王の将来を危惧していた(ただし、後深草天皇誕生以前は最も有力な皇位継承権者で、その後も万一の事態に備えて出家をさせずに置かれている〔)。その一方で将軍家と摂関家の両方を支配する九条道家(頼嗣の祖父)による幕府政治への介入に危機感を抱いていた執権北条時頼も九条家を政界から排除したいという考えを持っていた。ここにおいて天皇と時頼の思惑が一致したため、「皇族将軍」誕生の運びとなったのである。 しかし当時の幕府は既に北条氏による専制体制を整えていたため将軍には何ら権限は無かった。そのため和歌の創作に打ち込むようになり、歌会を何度も行った。その結果、鎌倉における武家を中心とする歌壇が隆盛を極め、後藤基政・島津忠景ら御家人出身の有能な歌人が輩出された。鎌倉歌壇は『続古今集』の撰者の人選にも影響を及ぼし、親王自身も同集の最多入選歌人となっている。代表的な歌集に『柳葉和歌集』〔、『瓊玉和歌集』〔、『初心愚草』がある。 25歳となった文永3年(1266年)6月(7月とも〔)、正室の近衛宰子と僧・良基の密通事件を口実に謀叛の嫌疑をかけられ、北条政村(執権)・時宗(連署)らによる寄合で将軍の解任と京への送還が決定された〔。この騒動で御家人たちが鎌倉に馳せ集まり、名越流北条氏の北条教時が更迭に断固として反対し時宗の制止を無視して武装した軍勢を率いて示威行動を行い、その軽率さを叱責された〔この教時の示威行動は後の二月騒動における教時の粛清にも繋がった。〕。次の将軍は嗣子の惟康王が就いた。文永9年(1272年)、二月騒動で側近の中御門実隆が拘束され、その直後に父の後嵯峨法皇の崩御に伴うためとして出家した〔。法名は覚恵〔、または行証(行勝)〔。 文永11年(1274年)8月1日、33歳で死去〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宗尊親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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