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俵屋宗達[たわらや そうたつ]
俵屋 宗達(たわらや そうたつ、生没年不詳)は、江戸時代初期の画家。通称は野々村宗達。号は「伊年」あるいは「対青軒」など。 == 概要 ==
宗達は尾形光琳と並び称せられる近世初期の大画家だが、その知名度の高さと後世への影響の大きさに比べその生涯には不明な点が多い。おそらく親交のあった角倉素庵や烏丸光広と同年代、1570年代かその少し前の生まれと推定される。京都で「俵屋」という当時絵屋と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵など、紙製品全般の装飾を制作していたと考えられている。同時代の仮名草子『竹斎』には、この頃京都で「俵屋」の扇がもてはやされたと記されている。 しかし、宗達は単なる扇絵職人ではなく、慶長7年(1602年)5月に福島正則の命令で行われた平家納経の修復に関わり、その内3巻の表紙と見返しの計6図を描いたとみられる(史料上確認できる宗達の事績の初見)。皇室からも作画の依頼があり、元和2年(1616年)、後水尾天皇が狩野興以に貝合わせの絵を描くのを命じた際、参考の一つとして「俵屋絵」を見せたとの記録が残る〔『中院通村日記』元和2年3月13日の条〕。また、寛永7年(1630年)には、後水尾天皇から屏風3双の制作注文があった〔一条昭良 書状::河野 元昭, 琳派 響きあう美, 思文閣出版, 2015-03-16, ISBN-10: 4784217851, ISBN-13: 978-4784217854 〕。 また、当代一流の文化人であった烏丸光広や本阿弥光悦〔「菅原氏松田本阿弥家図」によると、宗達は光悦の従姉妹を妻としたと書かれているが、この文書は宗達の次代より1世紀も後の記述であり疑問も多い。また、宗達は光悦の鷹峯の移住を共にしていない。〕らの書巻に下絵を描き、嵯峨本の出版にも関与したらしい。少なくとも寛永7年(1630年)には町の絵師としては異例の法橋の位が与えられていたことがわかっており、当時から一流の絵師とみなされていたことは疑いない。当時有数の茶人であった、千少庵を茶の湯に招くほどの教養人でもあったようだ。宗達死後は、俵屋宗雪が工房の後を継いだ。宗雪は寛永19年(1642年)既に法橋に叙されていることから、宗達はこの少し前に亡くなったと考えられる。大正2年(1913年)春に石川県金沢市の宝円寺で発見された宗達のものとされる墓によって、寛永20年8月12日(1643年9月24日)没という説が唱えられたが、京都の頂妙寺にある墓が宗達のものであるという説もあり、本人の墓であるのかについては異論もある。そのため、最近の文献では記載されないことが多い〔美術選集 美術選集刊行会 昭和2-4年。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「俵屋宗達」の詳細全文を読む
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