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定海[じょうかい]
定海(じょうかい、承保元年1月3日(1074年2月1日) - 久安5年4月12日(1149年5月20日))は、平安時代後期の真言宗の僧。俗姓は源氏で、村上源氏の出身。父は右大臣源顕房。藤原賢子(白河天皇中宮)・太政大臣源雅実・源師子(藤原忠実室)らの異母弟。三宝院大僧正・上生僧正とも称された。 == 略歴 == 幼くして従兄弟にあたる三宝院勝覚(左大臣源俊房の子)に師事する。康和3年(1101年)無量光院において伝法灌頂を受ける。永久4年(1116年)に第16代醍醐寺座主に就任し、上醍醐薬師堂の再建・東僧房の建立・清滝会の創始など寺を醍醐寺の振興に尽力した。大治4年(1129年)5月、東大寺別当になる。翌年の大治5年正月、権少僧都になる。長承元年(1132年)閏4月に東寺長者となり、同年5月に権大僧都に昇った。保延元年(1135年)10月に権僧正になり、保延3年正月に僧正になる。興福寺別当玄覚(藤原師実の子)を飛び越えてのこの人事に興福寺僧徒が反発して訴えを起こされ、一時僧正職を停止されたことがあった。保延4年10月に大僧正に昇進したが、これは醍醐寺の僧が大僧正に任ぜられた最初の例である。 彼は白河法皇・鳥羽法皇に関係する仏事を中心に数多くの仏事に招かれた。永久2年(1114年)11月の法勝寺新阿弥陀堂(蓮華蔵院)供養、大治2年(1127年)正月の法勝寺五重塔供養、大治5年(1130年)7月の法勝寺九体新阿弥陀堂供養、長承元年(1132年)3月の得長寿院供養、長承3年4月の得長寿院内一字金輪堂供養などの法会に奉仕。孔雀経法を修すること数回に及んだ。 久安元年(1145年)諸職を辞し、同5年4月12日に76歳で入寂した。著書に『大治記』1巻・『保延記』1巻がある。また弟子に元海・一海らがいた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「定海」の詳細全文を読む
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