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由理滴水[ゆり てきすい]
由理 滴水(ゆり てきすい、文政5年4月8日(1822年5月28日) - 明治32年(1899年)1月20日)は日本の江戸末期から明治初期にかけての臨済宗の僧侶。宜牧、または滴水と号し、無異室とも称する。姓は由利とも。 == 生涯 == 丹波国何鹿郡白道路村(現・京都府綾部市)に由理彦兵衛の長男として生まれる。父は早くに没したがその父の遺言に従い、9歳の時に出家をして、丹波国加佐郡行永村にあった龍勝寺の住職・大法和尚に師事する。のちに備前国の曹源寺に儀山善来禅師として入山していた道誉を慕い、その門下につらなろうとして赴くが、すでに入門者が多数であることを理由に謝絶された。3日間懇請し続けてようやく入室を許された。研鑽を積むこと数年後、28歳の時に禅師の命により安芸国・佛通寺の瞶翁和尚の法化を助け、京都・嵯峨にある要行院の義堂和尚を訪問しそこに居住する。 41歳の時に天龍寺西堂に任命され、義堂に代わって叢林を指導する。元治元年(1864年)7月に天龍寺が戦火にあった時(禁門の変)には、祖堂に入って夢窓疎石の霊像を背負って山林の中に避難した。明治4年(1871年)に天龍寺派管長、明治5年(1872年)に大教正となり、禅宗三派(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)の管長に選任された。 明治12年(1879年)2月には法嗣である龍淵を伴って東京に赴き、天龍寺伽藍再建の勧進について政府に請願し許可を得る。明治17年(1884年)に林丘寺住職を兼ね、この寺を再興する。明治24年(1891年)には天龍寺管長を龍淵に譲り、自分は林丘寺に隠栖する。明治29年(1896年)に再び天龍寺管長となり、再建工事を督促する。明治32年(1899年)に林丘寺住職を辞し、天龍寺再建に専念した。工事がほぼ竣工した直後に病にかかり、林丘寺雲母庵に寂す。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「由理滴水」の詳細全文を読む
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