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寶川 石五郎(たからがわ いしごろう、1816年〈文化13年〉〔文化15年説もある。西暦換算では1817年1月、1818年説もある。〕 - 1858年8月26日〈安政5年7月18日〉)は、雷部屋に所属した元力士〔http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3362&l=j〕。大坂相撲時代には朝日山部屋、東京へ移行してからは粂川部屋にも所属していた。 本名は佐伯 石五郎。身長,体重とも不明だが、体格は大きく3尺(約90cm)の入り口では常に体を斜めにして入ったと伝わる。出身地は現在の香川県観音寺市(旧・讃岐国豊田郡〔。 最高位は西前頭筆頭。丸亀藩の抱え。 最初は4代朝日山(真鸖政吉)の弟子として大坂相撲で取り、その後東上して1840年10月初土俵(序二段附出し)。1848年1月新十両(東二段目10枚目となり十両相当となった)。1849年3月場所では7勝1敗1分の好成績を挙げ、優勝相当成績〔この場所では他に谷嵐市藏、増位山岩之助(後の大関・境川浪右エ門)も7勝を挙げたがいずれも2敗している。〕を挙げた。1850年11月場所に新入幕。1852年1月場所では西前頭7枚目で、7勝2敗1休の優勝同点〔この場所で7勝1敗1休1分の成績を挙げた雲龍久吉(当時東前頭3枚目。後の第10代横綱)が優勝相当成績。他に当時西前頭3枚目の六ツヶ峰岩之助(後の大関・境川浪右エ門。先の増位山岩之助と同一人物)も7勝2敗の成績を挙げている。〕。1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ海軍のペリーが浦賀に来航した際には、幕府が与えた200俵の米俵を何と一気に8俵もの米俵を担いで積み込んだというエピソードも残っている〔歴史群像~描かれた肖像 - おおいた情報大事典 大分朝日放送、2010年6月5日放送。〕〔添田日誌ペリー応対・地誌 。「物品ノ内米弐百俵船中ヘ被遣(つかわさる)。此持込応接場ヨリ波止場迄持運ビヲ相撲力士共御呼寄セ命セラル。」とあり、当時の幕内力士が総出で、200俵の米俵を黒船に積む任務が課せられていた事が分かる。尚、寶川は当時西前頭6枚目だった。〕。幕内では僅か1場所しか負け越しが無く、しばしば優勝争いに絡み、当時の大関・小柳常吉には3勝を挙げるなど得意にしていた〔眠るは江戸相撲の権力者たち・南蔵院(相撲記念館・史跡案内) 〕。しかし番付運が非常に悪く、遂に三役以上を経験する事は出来なかった。1858年1月場所後、当時江戸市中に流行したコレラ〔古今大相撲事典(ISBN-13: 978-4336018786)より。このコレラでは、稀代の浮世絵師だった歌川広重も命を落としている。〕に罹り、7月18日に死去。43歳(41歳及び42歳説もあり〔)だった。 幕内通算 15場所 62勝28敗12分2預29休の成績を残した。優勝相当成績1回(十両時代の1849年3月場所)。 改名歴は3回ある:鷲ヶ嶽→本山→寳川 石五郎。 墓は豊島区の南蔵院〔。また、歌川国貞によって描かれた浮世絵が現存し、江戸東京博物館に収蔵されている〔寶川石五郎 江戸東京博物館・収蔵品〕。 == 出典 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寶川石五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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