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16世 宝生 九郎(16せい ほうしょう くろう、1837年7月10日(天保8年6月8日) - 1917年(大正6年)3月9日)は日本の能楽師。能楽シテ方宝生流16世宗家。本名は知栄(ともはる)。 維新後衰退した能楽界にあってその復興の中心を担い、初世梅若実・桜間伴馬とともに「明治の三名人」と並び称される。また多くの後進を育て、宝生流のみならず、能楽界全体の発展に力を尽くした〔表・天野(1987)、366~7頁〕。 ==生涯== ===最後の宝生大夫=== 宝生大夫・宝生弥五郎友于(宝生流15世宗家)の次男(兄は夭逝)として生まれる。幼名は石之助。 江戸時代後期の宝生座は、将軍家斉・家慶の支持を受け、他座を圧倒する勢威を誇っていた〔表・天野(1987)、140~143頁〕。父・友于もやはり将軍の後援の元、第一人者として活躍した名手であった〔表・天野(1987)、143頁〕。 1842年(天保13年)5月15日、江戸城本丸の舞台で「関原与一」を務め、6歳で初舞台を踏む。なおこの時ワキを務めたのが、後にワキ方の名手となる宝生新朔であり、やはり7歳の初舞台であった〔小林(1942)、277頁〕。 1848年(弘化5年)、友于は江戸で勧進能を催行する。江戸での勧進能は当時観世大夫の特権であり、それを覆したこの勧進能は、宝生座の隆盛期を象徴するものとされる〔表・天野(1987)、143頁〕。このいわゆる「弘化勧進能」で、九郎は12歳ながら16番〔表・天野(1987)では15番〕の能を演じ、その才能が注目された〔小林(1942)、277~8頁〕。 1853年(嘉永6年)12月、父・友于の引退に伴い、17歳で家督を嗣ぐ。この相続は、弟・重次郎を偏愛する友于の妻に反発した門弟たちが、九郎を推して友于を隠居させたものとも言われる〔小林(1942)、278頁〕。 こうして大夫として座を統率することとなった九郎であったが、32歳の1868年(明治元年)、幕府の崩壊に遭う。明治維新により、九郎を含む能役者たちは、その生活の糧を全く失い、路頭に迷うこととなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宝生九郎知栄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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