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宝鏡寺[ほうきょうじ]
宝鏡寺(ほうきょうじ)は、京都市上京区にある禅宗寺院。宗旨は臨済宗系の単立。近世には皇女が入寺する尼門跡寺院であった。山号は西山(せいざん)。通称人形寺(にんぎょうでら)〔『京都市観光情報システム>宝鏡寺 』 - 京都市産業観光局観光部観光企画課〕〔『MSNトラベル - 国内観光ガイド - 宝鏡寺(人形寺) 』 - MSN〕。 == 歴史 == 光厳天皇皇女の華林宮惠厳(かりんのみやえごん)は、無学祖元(鎌倉円覚寺開山)の弟子にあたる尼僧・無外如大が京都の五辻大宮(現・京都市上京区)に開いた尼五山筆頭景愛寺の6代寺持であった。 室町時代の応安年間(1368年 - 1375年)、伊勢の二見浦にて漁網に掛かった聖観世音菩薩を景愛寺子院の建福尼寺に安置し、建福寺を改めて宝鏡寺と称した。これには、足利義政の娘が文亀年間(1501 - 1504年)に再興したとする別伝もある〔『日本歴史地名大系 京都市の地名』(平凡社、1979)「宝鏡寺」の項による。〕〔『宝鏡寺-宝鏡寺の歴史- 』 - 宝鏡寺〕〔『京都市観光情報システム>宝鏡寺 』 - 京都市産業観光局観光部観光企画課〕。 足利義満の時代、隣地には小川御所があったとされ、義満母の紀良子、義満実弟の満詮の別宅だったというが、応仁の乱(1467年-1477年)の折、戦禍から後土御門天皇、足利義政室の日野富子が逃げ込んでいた。後に後嗣を巡る争いで御殿は焼かれてしまい、跡地は宝鏡寺に取り込まれた。 正保3年(1646年)、後水尾天皇皇女の理昌女王(久厳尼)が入寺して以降、代々の皇女が入寺する尼門跡寺院となり、土地の名前から「百々御所」(どどのごしょ)とも呼ばれたが、天明8年(1788年)焼失。以降再建された現在の建物群は尼門跡寺院の構成をよく伝えている〔門前にある「京都市指定有形文化財平成6年4月1日指定『宝鏡寺六棟(書院、本堂、使者の間、玄関、阿弥陀堂、表門)』説明板」。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宝鏡寺」の詳細全文を読む
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