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実相寺 昭雄(じっそうじ あきお、1937年3月29日 - 2006年11月29日)は、映画監督、演出家、脚本家、小説家。東京藝術大学名誉教授。妻は原知佐子。 現在までのところ、デビュー作(長編映画第1作)でFIAPF公認の国際映画祭(ロカルノ国際映画祭)の最高賞を獲得した唯一の日本人監督である。 ==来歴== 1937年(昭和12年)3月29日、東京四谷に生まれ、中国青島で育つ。日本敗戦を満州で経験し、戦後帰国。 1959年(昭和34年)、早稲田大学第二文学部(在学中に第一文学部から転籍)仏文科卒業後、在学中に国家公務員試験に合格したこともあり、外務省に勤務。その後ラジオ東京(現 TBS)に入社。演出部に配属され、テレビ演出家として活動。 1961年(昭和36年)、『歌う佐川ミツオ・ショー』の中継演出でデビュー。続いて『さようなら1961年 日劇ビッグパレード』を演出。以後、スタジオドラマや中継で演出に腕を振るう。しかしスチールを多用したり、ショー中に街頭インタビューを挿入したりと、実相寺のイメージ優先のシュールな演出は局の理解を得られず、テレビドラマでラストシーンに唐突に暗転させ雪を降らせたところ「なぜいきなり雪を降らすんだ」と大目玉を喰らった。このとき「なかなかいい演出だったね、でももっと雪は多いほうが良かったな」と誉めてくれたのが円谷英二監督だった。 1962年(昭和37年)、単発ドラマシリーズ『おかあさん』の「あなたをよぶ声」でテレビドラマ初演出。映画『愛と希望の街』に感銘し、脚本を大島渚に依頼。作品自体は当の大島から酷評されたが、これがきっかけで彼と親交を持つ。 1963年(昭和38年)、歌番組中継にて、大スター美空ひばりを執拗にアップで狙って喉の奥まで映したり、逆に美空を豆粒のように小さく映したりと、奇抜な演出を行ったため、局やファンから抗議が殺到。さらに、1964年(昭和39年)のスタジオドラマ『でっかく生きろ!』が不評を浴び、途中降板。半ば干された形で「局でぶらぶらしていて、フランスあたりで映画の勉強でもするかなと漠然と考えていた」ところ、これを見かねたTBSの先輩で円谷英二の息子である円谷一に「映画部へ来いよ、その前に暇だろうから特撮の脚本でも書かないか」と誘われ、テレビ映画畑に転身。当時TBSはフィルムによる劇映画の監督を局内映画部で養成するスタンスを採っており、局員助監督、監督として円谷特技プロダクションや京都映画に出向しながら作品を発表していた。円谷特技プロを初訪問したのは、同年秋だったという。 この年、原と結婚。自動車免許を取得する。 1965年(昭和40年)、TBS映画部に異動。ここは、フィルムを用いたテレビ映画を担当すると同時に、その外注先に社員ディレクターを監督や助監督として派遣しノウハウを蓄積するという役割の部署だった。『ウルトラQ』の脚本を執筆するが没となる。円谷一監督のドラマ『スパイ 平行線の世界』のチーフ助監督を務める。 1966年(昭和41年)、初夏に『現代の主役 ウルトラQのおやじ』で、円谷英二をドキュメント・ルポする。これが好評を得て、以後円谷特技プロに出向して、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』の演出で名を高める。なお、話の内容が現実味を含んだ夢幻なのか、幻想のような現実なのかよくわからない世界を舞台にした話が多く、映像効果もマッチしたものが多いために、その演出スタイルは実相寺マジックと呼ばれた。 1969年(昭和44年)、中篇映画『宵闇せまれば』(大島渚脚本)を自主製作し、映画監督デビュー。 1970年(昭和45年)、ATG提携映画の製作に専念するためTBSを退社。フリーの監督として活動を開始。美術監督・池谷仙克を社長とする映像制作会社「コダイグループ」(現:「株式会社コダイ」)の設立に参加。同じ円谷プロ出身スタッフで興した「日本現代企画」とは提携関係にあった。コダイには死去に至るまで所属している。長編映画第一作『無常』でロカルノ国際映画祭グランプリ受賞。 1971年(昭和46年)、TBSの『シルバー仮面』(宣弘社)に、「コダイグループ」として演出参加。のち巨大化ヒーローに作品が設定変更されたことに猛反発し、番組から撤退する。 1981年(昭和56年)、小説『怪盗ルパンパン』(徳間ノベルズ)を上梓。著述家としても活躍する。同年、演出を務めたスペシャル番組『カラヤンとベルリンフィルのすべて』において、カラヤンとのディスカッションで後の音楽関連の造詣にも関わるほどの影響を受ける。 1983年(昭和58年)、日本テレビドラマ『波の盆』で文化庁芸術祭大賞を受賞。他にカンヌCM映画祭グランプリも受賞している。 1985年(昭和60年)、西崎義展の依頼で『交響曲宇宙戦艦ヤマト』演出。NHKの外部制作番組の先駆けとなる。 1987年(昭和62年)、小説『星の林に月の舟 怪獣に夢見た男たち』(大和書房)を上梓。円谷プロ時代を、虚実の間で熱く綴る。 1988年(昭和63年)、『帝都物語』(荒俣宏原作)を演出。旧知のスタッフを総動員、ハイビジョンなども用い、大ヒット作となる。 2003年(平成15年)、食玩「昭和情景博物館」の監修を手がけた。 2005年(平成17年)、実相寺の作風とマッチする雰囲気を持つ、京極夏彦の『京極堂シリーズ』第一作『姑獲鳥の夏』を映画化(京極自身が熱烈な実相寺ファンだった)。以降もシリーズ続けての演出担当を期待させたが、実相寺の死によりコンビは一作のみで終わった。 2006年(平成18年)、11月29日午後11時45分、胃癌のため東京都文京区の病院で死去。享年69。戒名は「龍徳院禅徹定昭居士」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「実相寺昭雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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