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実聖尼師今[じっせい にしきん]
実聖尼師今(じっせい にしきん、生年不詳 - 417年)は、新羅の第18代の王(在位:402年 - 417年)であり、姓は金氏。『三国史記』に拠れば、父は金閼智の子孫の大西知(だいせいち、テソチ)伊飡(2等官)、母は昔氏の登保阿干の娘の伊利夫人(または企利夫人とも記される)、王妃は13代味鄒尼師今の娘の保反夫人。『三国遺事』王暦では実聖麻立干、あるいは実主王、宝金と記され、父を味鄒尼師今の弟の大西知角干(1等官)とし、母を昔氏の登也阿干の娘の礼生夫人、王妃を向留夫人(父系不明)とする。 高句麗に人質として差し出されていたが帰国後、先代の奈勿尼師今が402年2月に薨去したとき、太子を差し置いて国人が推挙して実聖を王位につけたとされる。訥祇麻立干の殺害を依頼した高句麗人に逆に殺害されたとも、高句麗人から害意を聞いた訥祇が殺害したとも。 ==即位まで== 392年1月に高句麗から新羅に対して使者が送られたとき、高句麗の勢力の強いことを恐れた新羅・奈勿尼師今は、実聖を人質として差し出していた。当時の高句麗は広開土王の即位前後のことでもあり、盛んに領土拡張を図って外征を続けており、庚子年(400年)には新羅の首都金城(慶尚北道慶州市)を占領した倭軍を任那加羅に撤退させ追撃している。このような状況下で実聖は401年7月に新羅に帰国している。実聖尼師今の本紀には先王の子が幼いためという理由が添えられているが、『三国遺事』紀異・奈勿王金堤上条に拠れば、奈勿尼師今が薨去した時の子は決して幼くはないことがうかがえ〔奈勿尼師今には長子の訥祇(後の訥祇麻立干)、卜好(別名として宝海)、未斯欣(別名として美海、未吐喜、未叱喜、微叱許智)があって、第3子の未斯斤(美海)が倭国に人質として送られたのが『三国史記』では実聖尼師今元年(402年)、『三国遺事』では奈勿尼師今36年(391年)であり、そのときに10歳であったとする。〕、当時高句麗の影響を強く受けていた新羅で、人質として渡っていたことによる高句麗との関係の深さを考慮して実聖が推戴されたものとみられている。(→井上訳注1980 p.90)
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