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高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年(明治38年)1月3日 - 1987年(昭和62年)2月3日)は、日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第三皇子。今上天皇の叔父にあたる。有栖川宮の祭祀を継承。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。 == 生涯 == === 有栖川宮との関係 === 1905年(明治38年)1月3日、当時の皇太子嘉仁親王の第三皇子として青山東宮御所で誕生。幼称(御称号)を光宮(てるのみや)といった。 高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承したのには故がある。1913年(大正2年)、有栖川宮第10代・威仁親王が後嗣・栽仁王に先立たれたまま薨去したが、当時は旧皇室典範によって皇族の養子縁組が禁じられていたため、有栖川宮は断絶が確定した。 しかし、大正天皇は、幟仁、熾仁、威仁三親王の幕末以降の功労に鑑み、威仁親王薨去の翌日(10日まで喪が秘されたため、公には「御重体」のまま)である7月6日に特旨をもって当時8歳だった第三皇子の宣仁親王に高松宮の号を与え、有栖川宮の祭祀を将来的に宣仁親王に受け継がせることとなった。 1923年(大正12年)、有栖川宮最後の皇族となった威仁親王妃慰子の薨後1年祭をもって同宮が絶家すると、その祭祀、および邸宅などの財産は正式に高松宮に引き継がれた。 1920年(大正9年)4月、学習院中等科三年退学、海軍兵学校予科入学。1921年(大正10年)8月24日、海軍兵学校本科に編入(52期)。1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生となったが9月に赤痢のために、候補生遠洋航海は断念。1925年(大正14年)12月1日、海軍少尉に任官。 1930年(昭和5年)2月4日、自身が祭祀を継承している有栖川宮威仁親王や徳川慶喜の孫にあたる徳川喜久子と婚儀。「公武合体」と話題を呼んだ。しかし、皇子女が合計7人の兄である昭和天皇、王子女が合計5人の弟である三笠宮崇仁親王と違い宣仁親王は子女は儲からず、血筋は遺されていない。 同年、昭和天皇の名代として14ヶ月にわたって欧米を周遊訪問し、5月27日にはサンフランシスコに立ち寄って日系移民たちの前でスピーチを行った。なお、このときのスピーチは地元住民によってレコードに録音され、現存している〔『Address of PRINCE TAKAMATSU』 高松宮宣仁親王 San Francisco May 27,1931。公家訛が混じりながらも溌剌とした声調であったという〕。 同年12月5日、帝都復興記念章を授興された〔『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高松宮宣仁親王」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nobuhito, Prince Takamatsu 」があります。 スポンサード リンク
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