翻訳と辞書
Words near each other
・ 宣徳寺
・ 宣徳寺 (世田谷区)
・ 宣徳帝
・ 宣徳王
・ 宣徳県
・ 宣恩
・ 宣恩県
・ 宣慈皇后
・ 宣慈符皇后
・ 宣懿皇后
宣懿符皇后
・ 宣懿蕭皇后
・ 宣戦
・ 宣戦布告
・ 宣戦布告 (小説)
・ 宣揚
・ 宣撫
・ 宣撫官
・ 宣撫工作
・ 宣撫班


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

宣懿符皇后 : ウィキペディア日本語版
宣懿符皇后
宣懿皇后(せんいこうごう、? - 956年)は、後周の世宗柴栄の皇后(2番目の正妻)。姓は符氏。2番目の皇后であった宣慈皇后の姉で、大符皇后(だいふこうごう)とも呼ばれる。北宋太宗の妻符氏(太宗の即位前に死去して懿徳皇后と追号された)の長姉でもある。
== 生涯 ==
の長女。はじめ李守貞の子の李崇訓にとついだ。李守貞が乱を起こすと、後漢郭威(のちの後周太祖)を討伐に向かわせた。李崇訓は符氏を自ら手にかけて殺害しようとしたが、符氏は李崇訓から身を隠した。その後、李崇訓は自害した。符氏は郭威の兵を一喝したので、軍士は迫ることができなかった。符氏は父の家に帰された。
その頃、柴栄は1番目の正妻(劉氏)を亡くしていたため、符氏は柴栄と結婚し、衛国夫人となった。柴栄が即位すると、皇后に立てられた。
柴栄は怒りっぽく、後になって後悔することが多かったが、柴栄が側近に怒りを浴びせようとするたびに、皇后が顔色をうかがってなだめ、また柴栄の意図をよく理解したので、ますます重んじられた。
柴栄が淮水地方に親征したとき、皇后は諫めたが、聞き入れられなかった。軍は功を挙げず、暑熱と大雨にあって苦しみ、皇后は憂いのあまり病にかかって崩じた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宣懿符皇后」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.