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宣秉 : ウィキペディア日本語版
宣秉[せん へい]
宣 秉(せん へい、? - 30年)は、中国前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は巨公司隷馮翊(左馮翊)雲陽県(陝西省淳化県)の人。子は宣彪。

== 事跡 ==

若くして高い節義を修得したと評され、三輔に著名であった。
哀帝平帝の代に、王莽が専横し、宗室の権限が削除されていくのを見ると、宣秉はこれを反乱の兆しとみなした。そのため、宣秉は奥深い山に隠遁し、州郡が召しても、病と称してこれに応じなかった。王莽も、宰衡の位をもって招請したが、応じなかった。王莽がを建国すると、再び使者を派遣して招請したが、やはり応じなかった。
更始1年(23年)、更始帝(劉玄)が即位すると、宣秉は徴に応じて侍中に任命された。
建武1年(25年)、光武帝(劉秀)の下で御史中丞に任命された。光武帝は特に詔を下して、御史中丞が司隷校尉尚書令と会議をする際には、それぞれに専門の座席を与え、京師(洛陽)の人々はこれを「三独座」と呼んだという。翌建武2年(26年)、宣秉は司隷校尉に昇進した。宣秉は、職務の重要な部分を把握しつつ、些細煩雑な部分を簡略したため〔原文「務挙大綱、簡略苛細」〕、属僚から敬われた。建武4年(28年)、大司徒司直に任命された。
建武6年(30年)、在職中のまま死去し、光武帝から惜しまれた。子の宣彪が郎として任用されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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